恋は電撃6ハロン
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| 競馬場踏切を行く越後線普通電車 |
新潟駅に着くとギャンブラー達は小走りで南口のバス乗り場へと急ぐが、私はあえて越後線の郊外電車に乗り換え二つ目の関屋という駅へと向かった。新潟競馬場は今でこそ郊外の豊栄にあるが、実は昭和39年までは市街地の関屋にあったのだ。
昭和39年といえばシンザンが三冠馬となった年である。あれから40年。今は新潟夏開催の重賞競走「関屋記念」にその名を残すのみとなった競馬場跡はどうなったのだろうか?そこで私は競馬場へ赴く前に、かつて競馬が行われていたというかの地を表敬訪問してみることにした。
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| 競馬場踏切 |
関屋は地方都市郊外の小さな駅だった。駅前より伸びる小道を競馬場跡へ向かって歩く。すると早速越後線を跨ぐ地点に「競馬場踏切」という名の踏切を発見。そしてその前向かいには「競馬場マーケット」と書かれた商店が建っていた。かつては開催日ともなれば大勢のギャンブラーで賑わったと思われるオケラ街道も今や昔、路地で遊ぶ幼い兄弟もその父もかつてこの地を駈けた優駿たちを知らない。
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| 読みにくいけど、競馬町マーケット |
10分弱歩くと競馬場の跡地らしき場所へと到着した。跡地は区画整理された住宅街となり、当時の面影は全くみられない。ただ住宅街の小さな公園、関分公園の片隅には記念碑が建てられていた。
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| 公園にあった記念碑 |
「明治41年9月6日越後競馬界によって第一回新潟競馬がこの関屋の地に開催された。以後57年、その間あまたの変遷を重ね、昭和29年日本中央競馬界に引き継がれ県または市主催の地方競馬が行われてきた。総面積30万平方メートル、馬場一周1600m、馬券売上年間11億4千万円に達した。やがて信濃川治水の一環として関屋分水が計画され、競馬場を市の東部に移し、その跡へ分水関係地域の六百余戸を移すこととなって、かくして昭和39年12月28日の競馬を最後としてこの住宅地に転生した。
ここに一片の石を留めてその大事を記す。
昭和41年3月
新潟県知事 塚田十一郎」
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| 都会の真ん中に捨てられた駅 |
駅へ戻り、こんどは競馬場とは反対方面へと歩き出す。すると間もなく目の前に信濃川の大河があらわれた。川沿いに「新潟交通東関屋駅ターミナル」と書かれたバスターミナルが建っている。ここは平成11年4月4日限りで廃止された郊外電車「新潟交通月潟線」の駅跡だ。
3年前の冬ここに来たことがある。当時はこの駅は生きていて、ここから月潟へ向かう電車に乗車した。 あれから3年半。駅舎は当時の原型すら留めているが扉は固く閉じられ、中を覗くとあの日の時刻表がそのままの姿で掲げられている。
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| 秋風に吹かれ、ただ朽ち果てるのみ |
裏口の柵を越えて駅構内に侵入する。駅名標や案内板こそ撤去されているが構内には線路や架線が残り、3年前の原型そのままだった。しかし線路は赤茶く錆び、伸び放題の雑草が生い茂っている。「安全第一」とかかれた機関庫には大きな柵で蓋がされ、南京錠がかけられた事務所内部はガラスが割れて荒れ放題だ。
その脇には二度と走ることが出来ない電車が棄てられていた。
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| もう、2度と走ることが出来ない |
競馬場跡、駅の跡。くしくも役目を終えた両者が対峙するここ関屋。競馬場跡は分水工事で家を追われた人たちによって新興住宅地として第二の人生を歩んでいたが、駅跡は整地される気配もなくただ無惨な姿をさらしている。時代の流れといってしまえばそれまでだがあまりに過酷な運命ではないか。
競馬場があった頃は知らない。だが駅があった頃は知っている。そんな遠い過去の記憶が感傷的な気分に拍車をかける。棄てられた電車たちは3年目の秋風に吹かれて一体何を想うのか。
その脇を「月潟行」と書かれたバスが先輩を嘲り笑うように走り去っていった。