三陸リアスシーサイド

 東北地方東部に広がる三陸海岸は我が国最大のリアス式海岸で、約200Kmに渡って険しい海岸線が続く交通の難所である。海岸沿いの貧弱な道路は大雪や高波の度に通行止めとなり、入り江の港町は度々「絶海の孤島」と化した。
 「鉄道が欲しい。」彼の地への鉄道敷設は明治以来の悲願であった。しかし当時の技術ではこの険しい海岸線に鉄道を敷く技術は十分でなく。途中戦争の影響もあって工事は難航した。
 しかし戦後の経済成長と技術革新によって鉄道敷設は現実的なものなり、昭和45年7月1日に盛ー綾里間。昭和47年2月27日に宮古ー田老間。昭和48年7月1日には綾里ー吉浜間。昭和50年7月20日には久慈ー普代間が開業し。残り区間の建設工事も次々に進んでいた。
 しかし社会構造の変革により過疎化が進み、沿線人口は減少の一途を辿っていった。少ない住民の間にもマイカーが普及し、人々の足は鉄道から乗用車になった。鉄道が悲願であった頃には線路は敷かれず、鉄道が必要なくなった頃に線路がやってきたのだ。
 さらに追い討ちをかけたのが母体である日本国有鉄道の赤字。昭和55年には日本国有鉄道再建法が施行され、三陸新線の建設は中止され既に開業した区間は廃止が決定された。
  しかし岩手県を中心とする自治体はなんと廃止決定区間を引き取り、残りの区間も自分たちが工事を引き継ぎ鉄道を全通させる決心をした。昭和59年4月1日。我が国初の第三セクター鉄道、三陸鉄道が開業。1世紀の時を経て三陸海岸が一本の線路で繋がったのだ。

 今からそんな三陸リアスシーサイドを、三陸鉄道、
JR東日本の四線を乗り継ぎ辿る事にする。


盛駅から伸びるセメント貨物線

 盛駅は先のセメント鉱山から伸びる貨物線の線路と繋がっており、ただっ広い構内にも貨物列車が多数止まっている。ちなみに私がこの町を訪れたのは2度目で、前はこの貨物ヤードをまたぐ跨線橋の下で野宿をした。
 そんなJR盛駅舎の脇に三陸鉄道の小さな駅舎が建っている。駅名表には「椿の里・盛」と鉄道開業時に観光鉄道としての発展を願って主要駅に付けた「愛称」が書かれている。

三陸鉄道とJRの普通列車

 14時30分の釜石行き普通列車で出発。単行レールバスの車内には観光客の姿も見え、新生三陸鉄道の観光に対する意気込みを感じることが出来る。大船渡線と分かれると左にカーブし、ま新しい高架橋を上がってトンネルに入る。トンネルを抜けた「綾姫の里」綾里では車窓いっぱいに真っ青な晩秋のリアス海岸が広がっていた。地震の影響で対向列車が遅れているらしく、待ち時間を利用して観光センターとして使われている駅舎を訪問した。

リアスの入江

 ここから先は三陸鉄道開業と共に開通した新線区間となり、軽快な速度で列車は走る。「科学の光」三陸を過ぎると海岸線は更に険しくなり、リアス半島の付け根をトンネルで抜けるたびに入江の小さな集落が現れる。トンネル、海、トンネル、海が交互に繰り返されていく。

 まもなく目の前に白亜の大観音と鉄の歴史館が見えてきた。最後のトンネルを抜けると「鉄とさかなの町」釜石である。市街を抜けて橋上市場を見ながら釜石駅ホームへ滑り込む。駅裏には日本製鋼の巨大な製鉄所が鎮座していた。
 

釜石にて、三陸鉄道レールバス

 釜石で同じく三陸鉄道の久慈行きレールバスへと乗り換える。しかしこの先の路線はJR東日本の山田線だ。実はこれ、三鉄とJRの「相互乗り入れ」なのだ。
 15時37分発車、2両編成のレールバスで三陸リアスシーサイドを再び北上する。乗っている汽車こそ三陸鉄道の真新しい車両だが線路は戦前に敷設されたJR山田線で、さっきとはうってかわってゆっくりのんびりと走る。リアス半島の付け根を小さな峠で越えて、入り江の港町をすぎるとまた峠にかかる。単行レールバスはそんな三陸海岸を上がったり下がったりしながら北上する。

 途中「吉里吉里」という変わった名前の駅に着く。この駅は井上ひさしの小説で有名になった集落だが、実はこの辺りの砂浜を足で踏むと「キリキリ」という音がすることに由来しているという。
 

宮古湾

 真向かいの席に座ったおばちゃんが車窓を案内してくれた。宮古市の商工会の役員さんだそうで、釜石へ所用で出かけていたらしい。昼間の地震を尋ねると釜石でも震度4の揺れを観測し、一時は東北全体で交通が麻痺した大地震であったようだ。  
 「ここ三陸は近いうちに大地震に見舞われるといわれてます。もしかしたら今日の地震はその前触れかもしれませんね。」 
 そんな大地震が来て津波でも発生すれば、この辺り一帯の集落は全て水浸しになってしまうだろう。
 
 晩秋の東北の日の入りは早く、16時を過ぎればもう辺りは暗くなる。ここ宮古湾は幕末に北へ落ち延びる土方歳三率いる新撰組が官軍との間で烈しい海戦を行った舞台でもある。

 16時58分、宮古着。17時前だというのにもう真っ暗だ。ここで後ろ1両の切り離し作業のため20分停車するので、早くも真っ暗な駅前を散策する、海からの風が冷たい。駅前に建つ鉄道開通記念碑は3年前の秋に同じく盛岡競馬場を目指した私が野宿をした場所だ。さすらいのギャンブラーは本来はこうでないといけない。
 

宮古駅にて、もう真っ暗です。

 どっぷりと日の暮れた「リアスの港」宮古を17時21分に発車する。車内は買い物帰りの用務客がちらほらとといった感じで、クラブ活動帰りの中高生の姿も見える。セーラー服の下にジャージを着るのは北国の女生徒ならではだ。東京ではどんなに寒くても生足で我慢しなければいけない。

 真っ黒い太平洋が眼下に広がる「銀色のしぶき」田老で女の子達が降りていく。ちなみにこの三陸鉄道北リアス線は三陸海岸においても特に地形が険しい所で、昭和59年開業の同区間はほとんどがトンネルである。ガーッ、ガーッ。車窓にはコンクリートの壁が続き、田舎の地下鉄に乗っているようだ。三陸海岸の海を見るには途中下車しなければならないだろう。

 龍泉洞への最寄り駅「泉湧く岩」小本を過ぎるとまた長いトンネルに入った。「カルボナード」島越、「カンパネルラ」田野畑。トンネルの合間に現れるこれらの小駅の愛称は岩手が産んだ童話作家「宮沢賢治」の作品からつけられている。
 

久慈到着

 「はまゆり咲く」普代は天空を跨ぐ高架橋の真上にあり、駅舎はこのさらに下にあるという。眼下に集落のか弱い明かりが見え、その向こうに漆黒の太平洋が横たわる。江戸時代に塩の生産で賑わった「ソルトロード」陸中野田を過ぎると終点の久慈は近い、前方に町の灯りが見えてきて、18時48分、三陸鉄道の終着駅「琥珀いろ」久慈に到着。ここから20時06分の八戸線最終列車に乗り継げば本日中に八戸へ着けるが、日も暮れたことだし今日はここで旅装を解く。久慈駅前には「三陸鉄道北リアス線ここに始まる」とかかれた立派な石碑が建っていた。

 さっそく宿探しモードに突入する。田舎町の観光案内所は早くも扉を閉じ、自力でねぐらを探さなければならない。さっそく駅前のたった一つの電話ボックスへ入り電話帳をチェキすると、なんと町外れに朝まで入れる温泉銭湯を発見。さっそく電話帳に定規をあててテレコールを始める。温泉の名は「古墳の湯」というそうで、2000円で仮眠室もあるという。今夜はここの世話になろう。
 次は駅に戻って地図を調べさせて貰う。まずはJR八戸線の久慈へ、しかし駅員さんがくれた地図は「久慈うまい店ガイド」、残念だがこれでは役に立たない。
 気を取り直して三陸鉄道の久慈駅へと向かう。古墳の湯の名前を出すと駅員さんは町の地図を渡してくれ、地図に印をつけてくれた。しかし歩いて行くというと駅員さんはびっくりして「1時間以上かかるよ」と言ってくれた。しかもバスも通らないような町外れにあるらしい。しかしそんなものは長い旅ぐらしで慣れっこだ。駅員さんに例を言い、町外れに向けて歩き出す。
 
10分も歩けばもう町外れだ。街灯の明かりも少なく不安になってくる。真っ暗な田舎町をとぼとぼ歩く。
 半時間ほど歩くと小さな交差点に着いた。駅員さんの地図ではここから小道へ入るようだが、街灯すらない真っ暗な小道が山の中へと伸びている。不安になったがここまで来ては引き返せない。覚悟を決めて山へと入る。

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 15分程歩くとあたりは真っ暗になった。前も見えない。ふと後ろを振り返れば来た道が漆黒の中へと消えている。闇の中でふと足を止める刹那に何とも言えない恐怖が襲う。森の中からカサカサと動物の蠢く音がする。

 (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 恐怖で全身が震えだし、足が前へ進まない。すると闇の向こうから車のヘッドライトが見えてきた。思わず道路に飛び出し、意地でも車を止める。運転手さんに事情を話すと快く車に乗せてくれた。ちなみにこの辺りは昔山火事があって全て焼けてしまい。例の温泉はその跡地に建てられたと話してくれた。命の恩人は温泉の手前で車を下ろしてくれ、私も精一杯のお礼を言って車を見送る。
 そんなこんなでその晩はお風呂に入ってゆっくり休みました。

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