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「すべての道はオランに通ず〜ライアスの場合〜」
鳥が羽ばたく理由を考えたことなどなかった。
それは自分が毎日畑に出て、大地に一鍬一鍬打ち込んでいくことと同じくらい当然のことだったからだ。空がありそして、生きるために鳥は羽ばたく。大地がありそして、生きるために人は耕す。それだけのことだ……
ライアス―――
勇ましきその名前の持ち主は、その日その瞬間まで、アレクラストの大地を耕す一人の農夫だった。
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夏の終りのこの季節、天候が不順なことは珍しいことではない。
一日や二日、陽の光を浴びずとも気分がふさぐ程度ですむ。
むしろ毎日の農作業で酷使している体を休めるためのいい口実ともなる。
だが―――
その雨がニ週間以上も止まずに降り続くというのはどう考えても尋常ではなかった。
「だめだ……」
一人の男が扉から入ってきた。外套を脱ぎすてると、濡れ鼠のようにガチガチと震えた。
「山間の方を見てきたが、今年はあきらめるしかねぇ」
「谷のほうは?」
中にいた白髭の老人が尋ねる。
「谷のほうがもっと酷い、地面が緩みきってる。あの状態じゃ、いつ崩れてもおかしくねぇぞ。そうなったら畑どころか、この村も全滅だ」
長雨に日照不足、そして冷夏―――収穫前のこの時期にこうむった被害は計り知れない。野菜類はほとんど全滅、陸稲も穂はつけたが実の入っていないものが多い。これだけでも致命的な状況であるのに、今、男たちの頭を悩ませているのは、さらに被害の大きい鉄砲水や土砂崩れの発生だった。
この村は山谷を切り開いて水はけのよい段々畑としているのだが、樹を切ってしまったため、地盤のゆるいところが何ヶ所かある。普通の雨では何ともないのだが、こうも連日降られてはさすがに限界を越えてきているだろうというのが男たちの見立てだった。
「そうか……では仕方あるまい。皆、聞いてくれ。わしらは最悪の事態を想定して行動せねばなるまい。明日になっても雨が止まねば、一度山を降りる」
決断の後には、やりきれない溜め息が場を支配する。生まれ育った場所を、自分たちが開拓した場所を放棄せねばならないのだ。その沈黙の重さは計り知れない。
「くそっ……」
誰かのついた悪態がそのままそっくり皆の気持ちを代弁していた。
その重苦しい空気の中、一人の少年が外へ出ていくことを誰も気に留める余裕などなかった。
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気付いたら走っていた。
毎日、通っていた道だ。体が覚えている。
何もせずに村や畑を見捨てることは少年にはできなかった。
両親から譲り受けた土地を、わずか一週間で放棄することなどできなかったのだ。
「なんとか…なんとかしなくては……」
気持ちばかりが焦る。
一人の力ではどうにもならないことを少年の中の冷静さは知っていた。
それでも―――
失いたくない。
その気持ちが手足に命令を下す、大地を蹴って、急げ、と。
降り止まぬ雨滴は山葡萄のように大粒で、少年の顔を腕を、容赦なく打ちすえていく。
それに屈することなく、大人への階段を登り始めたしなやかな四肢は、全力で風切る。
が、昼とはいえ谷から伸びる山道は薄暗く、雨のせいで視界も足場も悪い。
焦りは慎重さを奪い、泥水が河のようにうねっている斜面で、少年はバランスを崩した。
宙に投げ出され、一瞬、黒雲が見えた。
あっ、と思ったときには少年の体は崖下へと落ちていた。
火照っていた体が一瞬で冷える。
雨もなく、風もなく、ただただ時の流れの中に沈んでいく。その場を支配するのは孤独な、あまりにも孤独な静寂のみだ。
走馬灯とはよくいったもので、少年の柔らかな瞼にもその一瞬で多くの出来事が登り、そして多くの出来事が去っていった。これが少年が初めて体験した「死」の香であった。
それらの思いを抱きながら少年は目をつぶろうとした、が―――
静寂を破る声が聞こえる。
視界に光が入る。
目を向けると、燃えるような深紅の髪の女性が一人、自分に手を差し伸べていた。不思議と落ちている感覚はまったくなかった。
「さぁ、あたしの手を掴んで」
言われるがままに掴むと、その女性(ひと)は微笑んだ。
天使のようだ―――少年はそう思った。
「まったく無茶をするわね。あたしたちが気付かなかったら危なかったわよ」
ぐちゃぐちゃの地面にフワリと両足がつく。
そこで初めて少年は自分が助けられたことを知った。
「エーリカ、落下制御(フォーリングコントロール)の呪文はもういいわよ」
木立の影で複雑な印を結んでいた女性が一つ息を吐くと、二人のほうへ近づいてきた。
「間に合って良かったですわ。怪我はないかしら」
緑色の大きな瞳が覗きこんでくる。澄んだ色に見つめられて少年は頷くのがやっとだった。その時、ふと気付く。フードの下、煌く青色の髪からスラリと伸びた白い耳が印象的だ。人ではない、女性は「森の民(エルフ)」と呼ばれる種族なのだ。
「それにしても目指す遺跡はまだなのかしら。雨はひどいし……エーリカ、あたしもういい加減疲れたんだけど」
赤毛の女性が愚痴る。厚めのマントに、雨よけのフード、腰には細身の剣を佩いている。
「そうですね、オランでもらった地図だともうすぐだと思うんですけど……」
唸ったまま、二人の女性は黙りこんでしまう。
そこで少年は自分が何をしなければならないのかを思い出した。
「あの……助けてくれてありがとうございます。それじゃ……」
二人に軽く頭を下げると、再び走り出そうとした、が、力強い手で後ろから肩を掴まれてしまう。
「おっと、待ちなって。こんな状況でまだ走ろうっていうのかい」
そう、こんな状況だからこそ―――
「行かなくちゃいけないんです、離してください」
振りほどこうとするのだが、その華奢な指先はびくともしなかった。
「落ちつきなって、まったく何をそんなに急いでるんだい」
少年は簡単に事情を説明した。雨のこと、村のこと、そして両親から譲り受けた畑のこと―――
「……そうかい、で、少年はどうしたいんだ?」
赤毛の剣士が尋ねた。
「僕は……」
そこで答えに詰まってしまう。村を、畑を守りたい、でも、それだけの力がない。理性が口に重い鍵をかける。
「雨が熄めばいいのかしら?」
ふと、耳元で優しい声が響く。
「おいおいエーリカ、何を言ってるんだい。あたしたちはこれから……」
「わかっています、急いで遺跡にいかなくてはいかない、そうでしょう。でも、この子の話を聞いてしまって、それでさよならというわけにもいきませんわ」
「それはそうかもしれないけど……」
「ねぇ、私たちをあなたの畑へ案内してくれるかしら」
その笑顔に少年は戸惑いつつも頷くしかなかった。
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最初は、このひとは頭がおかしいのではないかと思った。
降り続く雨を止めることができるなど、神様でもなければ無理な話だ。
少なくとも少年の知りうるかぎり、そんなことは不可能な出来事だった。
だが―――
水浸しとなり、荒れた畑を前にエーリカが呪文を唱えつつ右腕を振ると、どうであろう。厚く垂れこめていた真っ黒な雨雲が跡形もなく消え去り、にわかに真夏の熱い陽射しが差し込んできたのだ。
「どうだい少年、驚いたかい。これが天候制御(コントロール・ウェザー)の呪文さ」
驚くなと言う方が無理だ。神様でなければできないと思っていたことを目の前の女性はやってのけているのだ。
「さて……半刻か、もって一刻が限度だね。それ以上はエーリカの精神集中も続かない―――さあ、少年、雨はあがった。あとは好きなようにしたらいい」
ここに至ってようやく少年は目の前の事象を飲みこむことができた。
雨はあがった―――
上を見上げれば突きぬけるような青空。雲一つ、浮かんではいない。
照りつける陽射しが肌を焼き、地面からは早くもサワサワと水蒸気が立ち上り始める。
歓喜―――感情がそのまま少年の全身を駆け巡り、腹のそこから言い知れぬ力が漲って来る。
近くにあった囲い用の板を剥し、その板を鍬がわりに、少年は泥だらけの大地に力をふるった。
すでに作物の大半は長雨のせいで根腐れをおこし、収穫前の秋野菜もその実は落ち、残っていたとしても全体的に色は青く熟してはいない。客観的に見て報告にあったように畑の作物は全滅だった。それでも、少年は板を使い大地に刻み付けていく―――雨水を掃けさせる溝を穿ち、倒れた野菜を直し、畝を築く。両親が残してくれた畑を大地を生き返らせようと、ありったけの知識と力を注ぎこんだ。
その一瞬一瞬に少年は自分が生きていることを実感し、また父や母の思い出に想いを馳せた。
そして―――
一通り畝を築いたとき、後ろから肩を叩かれた。
「少年、すまないがそろそろいいか。エーリカの奴、もう限界なんだ」
振り返れば一心不乱に呪文を唱え続ける女性の姿が目についた。流れるように綺麗だった髪は汗で額に張りつき、頬は紅潮して、今にも倒れそうだ。
うん―――少年は、声にならない声で意志表示をした。
改めて自分が整えた畑を見やる。
父や母のようにはいかないが、できるだけのことはしたつもりだ。
その足元、比較的被害の少ない場所に実った赤い果実を二つ、少年はもぎ取った。
二週間の雨と冷夏に耐えたたくましい果実だ。それは両親が手塩にかけて育て、少年が今、収穫したもの。農夫としての誇りといってもいい。
それを捧げる相手は目の前にいる。それは豊穣の神マーファではなく、笑顔の素敵な赤と青の女神たちだ。
その時―――
ポツリ、ポツリと雨が静かに降り始めた。
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「それじゃ、少年、世話になったね」
村外れ、大都オランへ続く街道が伸びる大きな楡の木の下。
雲雀の声がやけに高く響いている。
「ま、気を落とさずにな。あたしが言うのもなんだが命あってのものだねだ。畑はまた作ればいい。壊れた家はまた建てればいい。でも死んでしまったらそれまでだからね」
そう言うと頭を軽く叩かれる。
あれから二日、経っていた。
女性たちは当初の目的を果し、そして少年は住むべき家も、耕すべき畑も失っていた。
だが―――
この清々しいまでの気持ちの高まりはどうしたことだろう。
「では、私たちはこれで失礼します」
「それじゃ、またな少年」
その後姿に少年はどうしても聞いておきたいことがあった。
「あのっ……! どうしたら……僕は、どうしたらあなたたちみたいになれますか」
少年の質問に二人の女性は顔を見合わせる。そして、
「そう言えばまだお名前も聞いてませんでしたわね、私はエーリカ、こちらの剣士はイーリス。あなたは?」
「ライアス……」
「ライアスか……いい名前だ。ライアス、一度しか言わないからよく聞きな」
「うん」
朝日を浴びて立つ、目の前の二人がとてつもなく大きな存在に感じられる。
「確かにあたしたちは、あんたができないことをたくさんできるかもしれない。でもそれはそっちだって同じことさ」
「私たちができないことを……畑を耕し、作物をつくって日々をしっかり生きていくということを、あなたはできるのよ」
「でも……」
それはそうなのかもしれない。だが、そういうことを言っているのではないのだ。そういうことを感じているのではないのだ。この心の高まりは!
渋るライアスを前に二人の女性、エーリカとイーリスは顔を見合わせると微笑んだ。
「ライアス、農夫として生きることは素晴らしいことさ。それは胸をはって自慢できることなんだよ」
「うん……わかってる」
「そう、それが分かってるならまずは合格かな……」
「そうですわね」
そこでイーリスとエーリカ、二人は満面の笑みを浮かべた。
「世の中にはそれこそ人の数だけ素晴らしいことがある。人の数だけ人生がある。もしも……もしも、あんたがそれらを見たいと心から思うのなら……」
ライアスの前に二つの手が差し出される。
「付いてきな。嫌と言うほど見せてやるから」
「ふふ、これからよろしくね、ライアス」
右手に赤、左手に青。
少年は差し出された手をしっかりと掴んだ。
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鳥が羽ばたく理由を考えたことなどなかった。
それは自分が毎日畑に出て、大地に一鍬一鍬打ち込んでいくことと同じくらい当然のことだったからだ。空がありそして、生きるために鳥は羽ばたく。大地がありそして、生きるために人は耕す。それだけのことだと思っていた……
ライアス―――
勇ましきその名前の持ち主は、その日、鳥が羽ばたく理由を、獣が駆ける理由を、木々が芽吹く理由を、知りたいと願った。
そして―――彼は、冒険者となった。
<終>
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