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・12月25日
この一月で圧倒的に強烈なイメージを放ったのはやはり『ハリーポッター』シリーズであろう。童話に毛が生えたくらいのもんだろう、と甘く見ていたのだが、どうしてどうして、全世界で一億部売り上げたそのバックボーンはしっかりとしたものだった。魔法という超自然的要素、冒険活劇、強大な敵に力を合わせて立ち向かうハリーと友人たちの成長と言うビルドゥングスロマン、これからの巻で語られるであろう、恋愛的要素……魅力はたっぷりだ。ストーリーも必ずラストに感動が用意されていて余韻に浸れるし、次が早く読みたくなってしまうという、罪つくりな構成となっている。なかでも魔法のほうきで行う空中バスケットとでもいうべき「クィディッチ」の完成度は高い。実写版の映画でもその迫力は存分に表現されていた。このシリーズはまちがいなく「おすすめ」の本である。
睦月個人としては、このハリーにつられてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』にも注目が集まっていることが嬉しい。もうすでにアメリカでは映画も公開され(日本では3月予定)大人気らしい。こちらはハリーと同じモノを期待して原作に飛びついた場合、読者は確実に消化不良をおこすだろう。ちょっと次元が違うので。ハリーは現代を舞台にしたロー・ファンタジー、指輪のほうは世界観から言語からなにからなにまで作者であるトールキンが作り上げたハイ・ファンタジー。トールキン教授は中世英文学の権威だったのだ。Sir Gawain and the Green Knight にも詳細な注をつけている。この勢いでアーサー王などの人気も高まったりするとさらに嬉しいのだが……
田中芳樹『クレオパトラ葬送』 「ドラよけお涼」(ドラキュラもよけて通る、が由来)こと敏腕女性警視、薬師寺涼子が怪奇事件に挑むシリーズ最新作。しばらくぶりの登場である。田中ファンならずとも楽しめる一冊。ただ毎回思うのだが、怪物の選択とその扱いにもう一工夫欲しいところだ。
・12月23日(日)
朗報は続くもので、大学時代の友人Yさんが後輩のKと3月に結婚することとなった。二人とも学生時代からの付き合いだからま、いずれはと思っていたけど……本当におめでとう、ですね。
・12月22日(土)
忘年会、第二弾。 二日後に入籍する(ってクリスマス・イブですな)と言う友人Nさん。独身最後だとか言って、ハイテンションでとばしまくる。普段飲まないお酒をグビグビと平らげる。私はウイスキーをかなり飲まされました。おいおい、だいじょぶか? と思っていると案の定、グロッキー(私じゃないですよ、Nさんが)。新宿からタクシーで帰る羽目に……なんだろ、マリッジブルーとかってこういうもんなんでしょうか? 旅行の写真がようやく現像されてきたので皆で思い出話など。
・12月18日(火)
ドラマ『さよなら小津先生』最終回。今回のクールのなかでは一番の出来。脚本に『躍る大捜査線』の君塚良一。彼は社会における二項対立とその根底に潜む問題をうまく描きわける人だ。躍る、で警察組織、幹部と現場の一刑事との対立。続くドラマで刑事と少年犯罪、そして今回の小津先生で子供と教師。順順にネタを出してきていると言うか、前回のものを次回作に生かすというか、案外、したたかな人物なのかもしれない。
月曜九時の『アンティーク』は、漫画が原作だが、演出に本広克行というオオモノを引っ張った。これは成功を収めたかにみえたのだが……最終回が幻滅。話をあそこまでひっぱっておきながら、つまらない終わり方をしてしまった。もったいないが、これでは小津先生におよばない。
・12月15日(土)
忘年会、第一弾。サークルの仲間と渋谷の沖縄料理屋にて。音楽担当の後輩Y君を迎えての話し合いもかねる。進行状況を毎週報告とか……仕事を髣髴させ、頭が痛い。しかし楽しくいかねば、モチベーションも保てまい。
デジカメ購入。キャノンのIXY300が我が家にやってきた。とりあえず、マワリにあるものをとりまくる。これで取材も楽になる?
・11月15日
「そもそも戦いは詩的な作用であるように思われます」とハインリヒは言った。「人々はなにかとるに足らぬものを獲得しようと争いあうのだとばかり思いこんでいますが、じつはロマン的な精神がこの無益な悪事の自滅をはかって、自分たちを突き動かしているのだということに、少しも気が付いていないのです。人々は詩を称揚するために武器を取っているわけで、敵味方とも目に見えないひとつの旗に率いられているのですね」(中略)「・・・ところで真の戦いは宗教戦争であり、これはひたすらに破滅へ向かって突き進み、そこでは人間の狂気がもろに露呈される。あまたの戦い、ことに国民の憎悪から生じるものはこの部類に属し、本物の文学を生み出す。そこには詩人と対をなす高貴な人物、つまり世を統べる力量に詩情がおのずとしみわたっている真の英雄が住まっているのだ」 ノヴァーリス『青い花』より
アフガンに目を向けよ。完全なる宗教戦争とはいいがたいが、一方はイスラム教、アラーの民。かたや多国籍の北部同盟軍。核さえもちらつかせるタリバンに破滅を感じたのは私だけではないはずだ。狂気、そう、人殺しをしている時点で狂っているのであろうが、果たしてここからノヴァーリスの言うような本物の文学は生れてくるのか? 18世紀に生きたノヴァーリスのときとは戦いの規模が違う。当然、失うであろう代償も比較にならないほど多い。トロイ戦争の時代とは違うのだ。『イリアス』や『オデュッセイア』の時代とは違うのだ。詩人を現代に見出すのは難しい。ホメロスは現代にはいない。これは十字軍とも違う。獅子心王リチャードがサラセンの首を切り、血を流させたとしても、彼の祖国イングランドにて血は流れない。一兵士が命をかける事には変わりはないのかもしれないが、その命のやり取りを取り巻く舞台が違いすぎる。一地域だけの問題ではない、下手をすれば、人類規模でのしかかってきかねない問題なのだ。真の英雄も、文学として登場しうる真の英雄もその舞台では顔を出しづらかろう。
かねてからの予定通り、秩父へと温泉旅行。昨年、風邪で倒れて参加できなかったことを思えば、今年への意気込みもひとしおというもの。初日はあいにくと雨に振られてしまったが、流鏑馬を近くで見物。目の前を馬が走り抜けていく様は結構な迫力だった。馬場にコオロギが一匹迷いこんでいて、どうしようもないくらいおろおろとしていた。ただ死を待つしかない。谷崎の小説『城の崎にて』が脳裏によぎる。ネズミ、はち、サンショウウオ……そしてそれらを凄然と覆い尽くし消し去る死。フェータルな病から回復し、療養に来ている主人公はそんな光景に敏感に反応するわけだ。昨年は、一歩間違えば、フェータルからコフィンに直通してしまいそうな勢いだった私もまた、思うところあり。雨にうたれた馬場に漂う土の匂いは、それを踏みしめる躍動的な馬の筋肉とは相容れない。大地は母だけれども、今日は永遠の寝床のイメージが強かった。
そして夜はもちろん、宴会。旅館は、その名も梁山泊。水滸伝にちなむなら、山賊どもがたむろするような、いや、それにちかいような、いかつい主人でもいるのかと思いきや、そうではなかった。旅館自体の作りっていうか、設備は並か、ちょっとランク的には落ちるかもしれないが、なにが良いって、料理と人がいい。うまいし、量は充分過ぎるほどだし、おばちゃんの心遣いには恐れ入った。一泊一万円は、安すぎる。
男女で酒を飲んでると、恋愛話は避けられない。こんなところで価値観の違いとか、大体分かる。一人で生きていきたい女性における恋愛観とか、結構、勉強になる。
二日目は快晴。長瀞川下り。絶景。 自分用のお土産にと、ヒスイなどの勾玉を七つ購入。専用の皮ひもも買って、飾りとする。店主に石に興味があるのかい? と聞かれ、そうだと答えると、名刺を渡された。ネット販売もやっているそうなので覗いて欲しいとのこと。
午後は陶器つくり。粘土をたたき、まるめ、こねまわす。とっくりとぐい飲み、つまみを載せる小皿を作成。もろもろの工程が終わって完成は年内いっぱいかかるらしい。皆の分もまとめて我が家に郵送してもらうことに。
今回の旅、総じて楽しかった。そして私とともに今回の旅に同行し華を添えてくれたのが、シェイクスピアのハムレット。暇な時間の貴重な友人だ。今書いているシナリオに演劇部の女の子が登場するのだが、その子にオフィーリアをやらせようと思って今回の旅にご同行願ったわけだ。シナリオ的にはほのぼのとしたものなので、何処かで悲劇性を持たせたい、っていうことですぐに考えついたのが、劇中劇。ありきたりな逃げ道だけど、サブシナリオみたいな感じでオリジナルなハムレット観みたいなのを出せたら良いなと思考。オフィーリアに関してはその入水して死を迎える場面をいかにして描くかが山となるだろう。
上野到着は6時。もんじゃを食べて解散。
10月末日
今年のノーベル文学賞はV.S.ナイポール。やっぱりか、という感じもする。英語青年なんかでも特集を組んでたけど、この辺を見越してのことなんだろうかね。ポストコロニアリズム、イギリス植民地から脱した後の、インドなどを舞台にした彼の作品群はまだかじった程度なのでなんとも言えないのだが。
俺の屍を越えてゆけ、クリアする。ベスト版で発売されているだけのことはある。
10月15日(月)
グインの81巻、竜王戴冠の6巻。後者は隔月から月間に変わったので、グインよりも発行ペースが上がってる。竜王戴冠の方は、邦訳で読んでいるのだが一応、原文の方もペーパーバックで購入してある。こっちは邦訳で気になった箇所なんかを原文にあたるっていう感じに使うのだ。世界観に関しては原文でしか出ていないので、訳語解説で物足りないところを補う。オリジナルの世界を作るって言うのは大変だと最近、とみに思う。
anthrax :炭疽菌 手元の語源事典では1398年のTrevisa の Polychronicon に記述がみられる。ME(中世英語)では antrax ラテン語では anthrax 。OF(古フランス語)においてandrac, antrac だったものが16世紀以降は、英語同様ラテン語による再構成をうけ、現在のフランス語においても anthrax と綴る。
さて、テロの次は、生物兵器か? ってことになる。ビーンラディン・タリバンとの関連はいかに? 狂牛病騒ぎで、酪農家からの質問を受けて、「給食で牛肉を使わなくなったのに、牛乳をやめたところはひとつもないんです!」 と力説していた大臣。聞いていて悲しくなったのはわたしだけですか?
10月13日(土)
シナリオ作成に疲れた私は、現実逃避。ガンパレードマーチに続き、友人のホームエージで紹介されてたPSゲーム『俺の屍を越えてゆけ』(ベスト版で出てるんですね)を始める。説明書を読まないで、とりあえず始めてみるっていう人が多い(よね?)なか、私はある程度、説明書を読んでから始めるタイプ。大体はストーリー背景・登場人物と基本的なシステムを確認する。あとの細かいところは実地。だいたいシュミレーションかRPGぐらいしかやらないので、この確認作業はたいてい行う。で、今回の俺屍(オレシカと略すそうです)はその説明書にしてからが面白かった。ま、他と違うスタイルっていうことで面白い、っていうのとゲームデザイナーの「思い入れ」っていうのが熱く語ってあって非常によい。なにしろ、自分の子供の写真をパッケージデザインにつかってるデザイナーなんて彼ぐらいだろう。話し方も説明口調ではなく、己の失敗談・好みなどを盛りこみながら語っているのでポイントは押さえつつ、読み物として読める。笑いもあるし、ゲームデザイナーの人生も少し垣間見得た(大げさかな)気がする。学術書でもそうだが、難しいことを書く事を目的とする書物ほど、読み物として、読者を飽きさせない構成・語り方というのは非常に重要だ。ゲームの説明書一つにしてもそれは変わらない。で、とりあえず目を通して、スイッチオン。主題歌である「花」が流れる。これがまた、私のツボにはまる。歌詞は簡単なのだが、メロディがつくと圧倒的。頭から離れない。ストーリーは、11世紀初頭の京都を舞台に、鬼の親玉、朱点童子に短命の呪い(寿命は長くて二年)&種絶の呪い(人と交わり子を残すことができない)をかけられた一族が主人公。で、いろんな神様と女神転生のように、交わっては子孫をのこし、その血に力を蓄え、朱点童子を倒すのが目的。もちろん神にもランクがあるので、より強い神様と交われば強い子供を残すことができる。
10月10日
雨、雨、雨。午前中会議。朝はそれほどでもなかったのに、昼頃になったらかなり強くなっててずぶ濡れ。自転車じゃなくてバスでいきゃよかったと後悔。
10月9日
生姜焼き。昨今の諸事情により、スーパーの牛肉が安い。しかもいつもなら売り切れている閉店間際の時間帯(安くなるので私も主にこの時間帯に買う。っていうか、仕事が終わるとだいたいそんないい感じの時間帯なのだ)にも関わらず何パックも残っている。そこで焼肉用に佐賀牛を、ついでに生姜焼き用に豚のロース厚切りを購入。帰宅後まず、米を研いで炊飯。生姜を一つ丸ごとたっぷり、ゴリゴリとおろし金で下ろす。器に移して醤油と来月で賞味期限切れの料理酒をドバドバと注いで混ぜる。それにロース厚切りをたっぷりと浸す。付け合せのキャベツときゅうりをきって盛り付け。下ごしらえ完了。飯がたきあがるまでごろ寝などして暇を潰す。50分後、焼きの工程。家には換気扇がない(涙)ので窓と部屋のドアを開いて風通しを良くする。オリーブオイルを熱したフライパンにしき、そこへ生姜醤油の染みたロースをダイブさせる。ジョワワワ、ジュワッッ……なんとも食欲をそそる音を立てて肉が躍る。うまみをのせた油がアルミのついたてに飛び散る。両面をやき、生姜の芳ばしい香りが漂ってきたら完成。皿に盛り付け、食す。う〜ん、うまいが一番!
10月8日
米英軍によるアフガニスタンへの報復。それにたいするタリバン・ビンラディン交戦の声明。深夜の2時ぐらいから、きょう一日はこのニュースに釘付けだった。「目には目を」ってハムラビ法典の世界。
ノヴァーリス『青い花』。ドイツロマン派の詩人ノヴァーリス(1772-1801)の小説。この小説が彼以後の詩人/作家たちに及ぼした影響は計り知れない。以下、その献詩より抜粋。
はてしない変身のうちに歌の神秘な力は/この世でぼくらにあいさつをおくる。/かなたで永遠の平和を国土にめぐみ、/こちらでは青春としてぼくらを抱きとめる。/歌の力こそぼくらの目に光をそそぎ、/だから心うれしきひとも疲れたものも、/つつましやかにこよなき味をたのしむ。/そのふくよかな乳房を吸って生命を得、/今かくあるのはそのおかげ、/喜ばしく顔を上げられたのだ。/ぼくの至高の感覚がまだ眠っていたとき、/歌の力は天使となって舞いおりて、/目覚めたぼくを腕に抱き、かなたへと飛翔した。
10月7日
さてさて、友人Tと長々と話す。仕事の話やらこれからの身の振り方やら、二人の共通の友人Eの話やら、現在の様々な情勢、自衛隊の派遣についてとか、人の趣味には2種類あるとか、Tはなかなかに物事を鋭く斬っていた。さて、そんなTは最初、私の部屋に何しに来たのかというと本を借りに来たのである。電車の中でMDを聞くだけではどうにもしっくりこないらしい。もっと時間を有効に使いたい。しかし、満員電車なので新聞は読みづらい、かといってこの歳で漫画を読んでるのもどうかと思う、というのでなにか為になるような本を貸してくれと言うのだ。どんな本が読みたいのだ? と聞けば、ハウツー本みたいなのがいい、という。が、私の本棚にそのてのジャンルは品薄だ。英文手紙の書き方とか読んでも使わないだろうし……今までにも何冊かTには本を貸したことがある。時代物で「三国志」、SFで「夏への扉」。彼はどちらも挫折している。時代物、SFがダメ? では、あと我が家の本棚をしめているのは学術書、哲学書、詩集……ハードカバーは論外だし。岩波とか新潮文庫なんかは読みたくないみたいだし、『罪と罰』をめくって「ロシア文学」ってお前、分かるのか?とかきいてくるし……う〜む、悩む。いろいろとあさったあげくに経済学の本と、憲法の本が出てきた。どちらも「いやでもわかる〜」といった頭がついている。が、大学時代のものなので今の情勢には対応していない。それで却下。基礎は分かると思うのだが。さらに物色、ファンタジー系の棚へ移動。以下二人の会話。「『グインサーガ』……こんな長いヤツは読むきがしない」「なにせギネスに載ってるくらいだからな」「田中芳樹? きいたことあるな」「アルスラーン戦記か? 面白いと思うけど」「いや続き物はだめだ」「お、『悪童日記』、俺、これは読んだぜ」「ほう、それもシリーズなんだがな。そいつはうちの大学の教授が翻訳してるんだぜ。結構、衝撃的で面白い話だよな」「……ソフィーの世界っておもしろい?」「お前、哲学興味あるか?」「ないな」「山田風太郎とかはどうだ、時代劇+エロス、くノ一忍法帖とか、血がたぎるぜ」「……お、この指輪物語って知ってるぞ。トールキンだっけ、ゲームとかであったよな」「ああ、ファンタジーじゃ、古典だからな」……この調子で話は続いた。で、紅茶を飲みながら約2時間ばかりくっちゃべってみて、最終的にどういうことに落ち着いたのかと言うと、私がTからシドニィ・シェルダンの最新作『空が落ちる』を借りて終わったのだった。
HPのトップを更新。
『竜王戴冠5巻』、『明日もきっと晴れ♪』
9月30日〜10月1日
ドームに翻るオレンジの旗。巨人ファンなら誰もが涙したであろう、長嶋監督引退のニュース。徳光さんじゃないけれど、あらためて監督の偉大さを実感。同時に槙原・斎藤・村田の三選手も現役生活に幕を下ろした。21世紀という幕が上がって始まった今シーズン。計らずも、「プロ野球」の一つの幕を下ろすシーズンとなってしまった。巨人だけではない。中日の星野監督も辞め、阪神の和田も引退。まさに一つの時代が終わったのだ。
9月27日(木)
Panforte 『パンフォルテ、シエーナの僧院で1000年も前に生れたといお菓子。ナッツやフルーツを砂糖とハチミツでゆっくり煮詰め、ココアやシナモンを加えてヌガー状にして焼き上げる』っていうのを上司であるWさんから戴く。ごちそうさまでした。 で、その裏の解説のところに上述のような文章が載っているわけなのだが、その締めにこうある。『中世を思わせる甘さは、神父さんの好みかしら……』 あの味が中世を思わせる味かどうかは別問題として、当時の食生活って言うのは興味のある話題だ。最初はおそらく砂糖漬けぐらいから始まっていると思うのだが、そういうものを食べられたのはやはり、ある程度、経済的に余裕のある寺院関係者だったのだろうか。ええと、書棚をあされば、なにか資料が出てきそうなのだが、今日は時間的に余裕が無いので、こんどの週末にでも調べたい。
9月26日(水)
近鉄バファローズ、優勝おめでとう。でも、12年ぶり? しかも、ここ二年は最下位だった? そうだったけ? でもまあ、あんな劇的な勝ち方、なかなかできません。いいもん、見せてもらいました。巨人? とにかく、頑張れ!
Kさんから、『ハリーポッター』を薦められる。読んでないんだよね、私。児童書でハードカバーのものっていうと、メリングのドルイドシリーズとか、あとは「ソフィーの世界」とかになってしまう。トールキンの『ホビット』とかもハードカバーであるけど、あの辺はもう、児童書なんだけど、作者が学者だけに、児童書の枠を越えてかなり研究対象になってしまってるからなぁ。
9月25日(火)
研修あけで、実に2週間ぶりの職場である。午前中はけっこうトチってたような気がする。
巨人、勝利。ヤクルトも勝ってマジックは8、負けないですねぇ。
北方謙三『三国志:3、4巻』 R・ジョーダン『竜王戴冠:4』
9月24日(月)
なんともはや、ファンに期待をもたせてくれるではないか。何が、といえばそれはもちろん、東京読売巨人軍である。首位のヤクルトに三縦をくらわす痛快さ。先発から岡島、桑田と繋ぐ投手リレー。優勝はヤクルトの勝ち星次第と言う他力本願は変わらないのだが、それらを吹き飛ばして優勝を呼びこむような勢いを感じる。まあ、この日記を読んでいる方が何人いるのかは分からないが、巨人ファンは少数派なのではと思う。が、最後まで頑張って、優勝してくれ。いや、マジで。
友人E、未来へ向けて静かに始動。
9月22日(土)
今日はバレーボール大会。日ごろの成果をって、意気込んでは見たものの、結果は愛でたくブービー賞(涙)。優勝はJ東北部会チーム。言い訳するわけじゃないけれど、やっぱり、練習しているところが優勝したなってかんじ。
ロミの『悪食大全』。先日触れたラブレーの話が出ている。急に思い出したのだが、ラブレーは、大学時代にフランス語を教えてくださった荻野安奈先生のご専門だった。ラブレーは16世紀フランスの修道士であり、医者であり、司祭であり、そして作家であった。彼の理想は学問と知恵からなるのだが、その知恵というのは喜びとともに、つつがなく平穏に、そして「いつもおいしいものを口にして」生きることにあった。そのラブレーが描いたガルガンチュワの食事風景から。 「その次に、大便をしたり、小便をしたり、げろを吐いたり、げっぷをしたり、おならをしたり、欠伸をしたり、唾をしたり、咳をしたり、しゃくりをしたり、くしゃみをしたり、うんとこさ水洟(はな)をかんだりした挙句、湿気や毒気を払うためにもと、朝飯には、おいしい臓物の揚物や、おいしい炭火焼や、おいしい燻塩豚(ハム)や、おいしい仔山羊の焼肉や、僧房式朝飯風の肉汁漬麺(パン)などをたっぷり食べた」 さてさてなんたる鯨飲馬食! まあ、司祭さまがこんな文章をかいていたとは傍目には痛快だが、教区の人々はたまらなかったのではないか。『ガルガンチュワ』『パンタグリュエル』の2冊ともフランソワ1世の出版允許状をもらっているにもかかわらず、ソルボンヌからは糾弾されたということだが、さもありなん。
9月18日(火)
「救命病棟24時」最終回。江口と松雪、くっつくようで、やはりくっつかない。これがこのドラマのいいところでもある。次回作にも期待大。江戸川にてバレーボール練習。2週間の研修も75%、終了。
9月17日(月)
別腹、っていうのはホントにあるらしい。友人Fさんの話である。胃が一杯でも、食べたいケーキなんかが目の前に合ったりすると、驚く無かれ、胃が波打ち動き、スペースを開けると言うのだ。文字通り、別腹。ホントかよ、と突っ込みたくなる話題だが、彼女は終始まじめだった。よくよく聞いてみると、TVから得た知識らしい。こんなことあるもんなんだろうか。手元にラブレーの『ガルガンチュワ物語』の挿絵があるのだが、こんな膨れた腹ならまだしも、普通の胃袋では……
9月16日(日)
池袋にて新刊販売。二十数冊の売上。今回は皆、力入ってたからね、お疲れさまでした。hirさんの編集もいつにもまして手が込んでたし。浅井さんの連載漫画は無事完結。季衣如と斎宮の作品もそれぞれ成長の後が見える。で、今回の私の成長は? といえば、う〜む。どうしようもない方向にベクトルが向かっているような気がする。あとはフォトショップでイラスト描くのにちょっと味をしめたってところ。
皆と打ち合わせ。自戒の意味も込めて、毎週日曜日を締めきりに設定。宮城音弥『夢』(岩波新書)読む。「狂人は目が醒めていて眠るものだ」(カント)「夢は短い狂気、狂気は長い夢」(ショペンハウアー)「夢は睡眠の守護者」(フロイト)。古い本だが、心理学関係の本に欠かせない実例は豊富だ。
9月9日(日)
前々から人気の高い、プレステのGPM(ガンパレード・マーチ)を中古で購入。早速始める。そのシステムが面白い。戦闘システムもジークを彷彿とさせるつくりで好感。学園モノの面白さもあるし、話にも奥がある。総合的に楽しめる作品。
9月10日(月)
今日から2週間の研修。友人を増やす。同じ寮に澄むM原。東京FCファン、サッカーフリーク。旅行好き。行動力あり。英会話学校に通う。小笠原島勤務の話を断って、昨年、こちらに越して来た。
9月5日(水)
本の帯というのは重要だ。内容を表しつつ、客の購買意欲を煽らなければならない。で、今、手元にある一冊の書物の帯にはこうある。「自然と精神、身体と心がまだもう少し一体のものであった時代、困窮と悲惨のなかにあって「自然の治癒力」を信じ、大きな自然の秩序のなかに身をゆだねていた中世の人々、彼らは果たして〈病〉をどう捉え対処していたのか。アラビア医学とヒルデガルト研究で群を抜く著者による、西洋中世の医学・医療・患者の全体的把握……」 ふむ、なかなかいいできだ。まず最初の「もう少し一体のものであった時代」というのがいい。科学と魔術、サイエンスとマジックの混合したような中世の雰囲気が「もう少し」という修飾語によってかもし出されている。そしてヒルデガルト研究。なんですか、それは? 新しい心理学かなんかですか? っていうことで見知らぬ単語に知的好奇心がくすぐられる(ま、索引でちょっと調べてみれば、それが聖ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのことであることはすぐにわかったのだが)。で、この本のタイトルが「中世の患者」。現代はドイツ語で、Die Kranken im Mittelalter 。ドイツ語の分からない私でも、ああ、直訳してるな、というのはすぐに分かった。簡潔、直球ストレート。学術書は読み物でもなければならない、というのはオルテガの言葉だが、こと、タイトルに関してはこういうストレートなものがいい。ここが普通のノベルと違うところだ。
9月4日(火)
「開胸してじかに心臓をマッサージする」救命病棟24時で江口洋介扮する進藤が言い放つ。マジ? 医学に疎い私は興味津々だった。まさか手は使わないよなぁと思いつつ、みていると機械で心臓に触れて、直に電流で刺激を与える、ということが分かった。なあんだ、ちょっとがっかり。心臓を手で揉む図が一瞬でも頭をよぎった私が馬鹿でした。そんなことしたら助かるモンも助からないですよね。
9月3日(月)
イヴァン・ゴルの『時計』という作品の中にこうある。澁澤龍彦が「天使の自殺」と銘打って取り上げたものだ(『澁澤龍彦コレクション3:天使から怪物まで』)
すべての塔から時が落ちる
路上でくだけるガラスの翼
絶望した天使の自殺
永遠よ
む、どこかでみたような……と思ったら、時の流れの上にくずおれる天使のイメジャリーは、私の詩、「堕天使のつぶやき」と重なっていたのだ。 堕天使、このワードは私の中では、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン天使の詩』へと直結している。これのリメイクに『シティ・オブ・エンジェル』があるけど、そんなものとは作品のメッセージ性、厚みが断然違う。後者をハーレクインの恋愛本だとするなら(別にハーレクインを軽視するわけではないけれども……)、前者はO.E.D.なみの厚さがあるのだ(私のなかでは)。ちなみに具体的にこの喩えが解りづらいかたの為に書いておくと、ハーレクインは厚くとも1センチには満たない文庫本だ。CMも流れているからご存知の方もいるだろう。一方、O.E.D.はといえば、これはOxford English Dictionary(オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリ)のことであるから、その全巻の厚さをはかるなら余裕で1メートル以上にはなるであろう。厚さもさることながら、1巻の大きさも半端ではない。三田の図書館でこいつと格闘した日々が懐かしい。
恋に落ち、羽を捨て、ベルリン市街の尖塔の上から文字通り堕ちる天使。あるいは時の流れの中に己の存在意義を見失った天使。なんとも現代の天使は人間らしくなったものだ。いや、やはり個人の求める宗教性が薄れてきた点が大きいのだろうが。
大学時代の友人Kさんからメールが来ていた。懐かしい。
9月2日(日)
God Bless You! とは、くしゃみをしたときに使う常套句だが、日本にもそう言うものがあったそうで。もちろん、知ってのとおり、今では一般的に使われていない。
道教の呪文に「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう)という呪文がある。近年、数多く発掘される呪符木簡に記されている言葉だ。で、クシャミを道教流に解釈すると、風邪をひいたからクシャミがでるのではない。誰かが発した邪気が体内に入ったからクシャミがでる、と言うことになるらしい。故に、その邪気を追い払うため、すぐに「休息万命(クソクマンミョウ、急々如律令」と唱えなければならない。この頭の、「クソクマンミョウ」が「クッサメ」となり、やがて「クシャミ」になった。だからクシャミをしたとき、誰かが噂をしている、というのは道教的には正しい解釈になる(以上、『呪術・禁断の秘法』より)
いろいろと資料をあさっているとこういう雑学が増えていく……まあ、それが血肉になるんだけど。クシャミと言って思い浮かぶのは後は、漱石の猫、ですかね。確か『我輩は猫である』に苦沙味先生(字はこうだったかな)なるキャラがいた。どんな人物だったかは、よく思い出せない。猫を初めて読んだのは確か、小学六年生の頃だったと思う。母が本好きで、息子にも、と言うことで文学全集みたいなのを買ってくれたのだ。そのうちの一冊が猫だった。二巻本を通読したのだが、小学生の頭ではその半分も理解できていなかったと思う。風刺なんかは、さっぱりだったと思うし。で、名前はまだない、から始まって、溺れて死んじゃうまでの猫からみた人間観察は、恥ずかしながら頭にほとんど残っていない。本棚を漁ってみたが、猫はなかった。かわりに出てきた漱石の日記を読み飛ばす。
漫画、沙村広明『無限の住人』を読む。面白い。古事記・祝詞にネタを漁るも収穫はほとんどなし。『夢の王国:夢解釈の四千年』(M・ポングラチュ/I・ザントナー著)にあたる。ラッセルの哲学史、レヴィ=ストロースの『野生の思考』をハードカバーで購入。
V・S・ナイポール『インド・光と風』『インド・闇の領域』。9月号の「英語青年」の特集が、ナイポールだったので興味本位に購入。
FF]のブリッツボールにはまる。
・8月29日(水)
恒例(になるのかな)、「睦月といく秋旅行」の予約を入れる。昨年は自ら企画したにも関わらず、風邪でダウンしていけないという暗い(?)過去があるので今年はリベンジだ(これもそろそろ死語ですかな)。友人Eの薦めで秩父のほうの温泉旅館をメールで予約。しかし、最近は宿の予約もHPへのメール一つで取れるので便利になったものです。同時にその旅館の案内なんかがいろいろ載っているわけなんですが旅館レベルだと、その主と言うか、経営者が管理してるわけです。で、その主の趣味がモロでているページが結構あっておもしろい。夜一人でネットサーフするには、怖いような妖しげなBGMがながれてたり、こじんまりとした風呂が大々的にとりあげられてたり、一人一人の思い入れを感じます。まあ、HPなんてその性格上、自己満足のところも多分にありますからね。私も人のことはいえません。
シナリオでも小説でも、「登場人物を創る」っていうのは楽しいけど、時間がかかる。おまけにあとからあとからいろんな修正が加わったりして話の中で勝手に成長していってしまう。よく言われることだけど、キャラが一人歩きするっていうやつだ。名前なんかも、ストックが一応あるわけで、それをこねくりまわしてイメージに合うようなものをつけたりする。で、現在もこの作業が進行中なわけだが今回はかなり、苦しんでいる。ノベルゲームなのだが、CGやプログラムは友人任せで私がシナリオ担当。当然ながら、シナリオ担当の私がキャラ設定からなにから考えるのだが、主人公にいたっては仮名ということで自分の苗字なんかが出てきてたりする。これは、かなり嫌な状況だ。それでも仮名のまま話を書いていると、そのまましっくり来てしまうのはさらに嫌だ。なんとかしなければ。
・8月24日(金)
澁澤龍彦コレクションと銘打った三巻本。ネタ探しにと、その一冊『夢のかたち』を読む。古今東西、様々なジャンルから夢に関する部分を抜粋して編集したものだ。どういう基準で選んでいるのかは不明だが印象に残る部分が幾つかあった。まずは冒頭、夢に関する澁澤氏の基本的なポジションを明確にしている部分。「いかにも本当らしい夢と言うのは、いかにも本当らしく語られた夢ということでしかない。夢のリアリティーは、語りのリアリティーによって保証されるよりほかにないらしいのだ(中略)そこで夢を語るものは、伝達不可能な自分の夢を少しでも他人に分かってもらうために、夢の論理をいくらか日常の論理に翻訳して語ると言う、無意識の操作を行うことがないとはいえないのではないか。語られた夢は、夢そのものとは別物だ」 現在、「夢」をキーにした話を書いている身としては意識しておかねばならない部分だった。で、プリニウスの「仰向けに寝れば多く夢をみる。うつぶせに寝れば夢を見ることはない」『博物誌』にホントかよ、と一人突っ込みをいれ(だいたいヘロドトスの『歴史』のエジプト記述なんかをみてもそうだけど明確なとこはきちっとしてるくせに、自分の知らない分野は突拍子も無いことを書いてたりするんだよな、この時代の人たちは)、ニーチェの「夢はまったく見ないか、見るならば面白い夢。目覚めているときも同様で、まったく目を覚まさずにいるか、あるいは面白く目覚めているかだ」『華やぐ智慧』にそりゃそうだよなあ、と頷き、カルデロンの「人の一生はまさに夢」『人の世は夢』に東西を問わず、人生観はかわらんなぁとため息をつき、ジャン・コクトーの「夢は私のシーツの上で息絶える」『存在困難』に危険な香を感じ、「眠りよ、全身に星を散らしたカメレオンよ」『眠りの連』と謳うコルビエールの詩に想像力をかきたてられる。で、最後は誰の言葉で締めくくるのかなと期待しつつ読み進んでみれば、でました西洋の黒魔術師エリファス・レヴィ。「神の夢。目に見える言葉で形作られた、この世は神の夢だ」『コレスポンダンス』。最後にレヴィを持ってくるところがいかにも澁澤龍彦らしい。
・8月22日(水)
里帰り。台風一過。
・8月2日(木)
熱高し。風邪にて早退。情けなし。
・8月1日(水)
作家、山田風太郎氏が逝った。氏とともに日本文学における伝奇ジャンルのひとつの時代が終わったと言っても過言ではあるまい。忍法帖シリーズ、室町・明治を舞台にした時代小説、捕り物小説。そこにひしめくものすごいパワーを、読者を引きこんで離さないパワーを持った登場人物とストーリー。大学時代の読書会で氏の『伊賀忍法帖』と当時、映画も好調だった司馬遼太郎氏の『梟の城』を取り上げたのはもう、2年も前のことになってしまった。忍者ブーム、この火付けは明らかに山田風太郎だ。その後を追って司馬氏の梟が続く。あと氏の作品の中で目を引くのは、日記である。戦時中からつけられたその日記は、しかし、読書録という一面をあわせもつ。そしてその読書の量とジャンルの広さには南方熊楠ではないが、やはり、脱帽する。医学を学びつつ、文学への食指をたえず動かしていた氏の確立したものは、いってみれば科学と魔術の混交した世界。それはカオスなのだけれども、話としてのプロットはきちんと通っている。まあ、たまに、rationalization、つじつまあわせの感があるのは愛嬌の範囲だ。
佐藤賢一『双頭の鷲』上下巻。文章が新鮮。目新しい故に、読みにくい箇所もあるが、話自体は面白い。
・7月26日(木)
連日のうだるような暑さに、TVの上の観葉植物が枯れてしまった。直射日光がバリバリあたるところにおいておいたのがまずかった。表面がしわくちゃになり、黒くちぢれてしまっている。あっ、と気づいたときには遅かった。本当にかわいそうなことをした。
F・アリエスの『死の文化史』を購入。アリエス、最後の著作だ。アリエスとは、学生時代から個人的には興味深い付き合いをしてきた。アリエスと聞いてまず頭に浮かぶのが『子供の誕生』。子どもという概念が確立されたのは比較的、近代のことであり、それ以前は「ちいさい大人、ちいさい人」というのが一般概念だった、というのを博識の論でもって説いていく。私も、この『子供の誕生』からアリエスの作品に入っていった。さて、『死の文化史』のページをくくっていくと、まず、カラーの図像が目をひく。さらにぱらぱらとめくる。なんと、ほとんどのページに図像が入っている。最初の人骨、ホモ・サピエンス・ネアンデルタレンシスの写真からイングル・ベルイマンの映画『叫びとささやき』(1972)の一シーンまで、そのバリエーションには目を見張る。これから読むのが楽しみな一冊だ。
・7月22日
博覧強記、という言葉はまさにこの人に相応しい。南方熊楠。彼の『十二支考』を読む。東西の文化、書物にこれほど通じていたのか、脱帽するしかない。出典は読んだ事がないものばかり、いや、名前すら聞いたことがないものがほとんどだ。この領域に少しでも近づきたい。
・7月18日(水)
1年ぶりのバレーボールの練習。ほんと、体を動かすのは久しぶり。腕が少し痛い。
さて、「キリスト教」は西欧の文化を理解する上でその基調をなすものである。新約、旧約の聖書はいうに及ばず、書簡から、黙示録にいたるまで一度は目を通しておきたいものだ。芥川龍之介はこのキリスト教を「逆説の多い詩的宗教」とよび、キリストを「超阿呆」と呼ぶ。もちろん『或る阿呆の一生』をあらわしたものを踏まえる(宇野邦一著『詩と権力のあいだ』)。
・7月17日(火)
数ヶ月振りか。TVのドラマをみて涙が流れた。フジの『救命病棟24時』。江口洋介主演のヒューマンドラマだ。前作の好評を受けての続編である。前作で植物人間の妻という十字架を背負っていた進藤(江口)。その設定が無くなったぶん、話はかるくなったが、やはり扱うテーマは生と死、医者と患者、人間ということにかわりない。進藤を波紋の中心に据えて、その周囲の人物を描く脚本が秀逸だ。comedy からtragedyまでを盛りこんでいる。今回は研修医の二人の男女。それぞれ、肝臓障害で意識の戻らない5才の女の子と、末期ガンでもう余命いくばくもない老女を担当する。医療的には効果的な方法の見出せない中で、研修医の二人は悩み、そして患者という「人間」に触れることで医者として成長していく。心が通い合っていく。老女の言葉が胸に響く。「あたしにはなにもしなくていい。ただ、あの子のためにこの千羽鶴を折ってちょうだい。あたしは十分生きたけど、あんな小さい子が死んじゃ、いけない。あんな小さい子をたすけられないんじゃ、あんたたち、医者の資格なんてないよ」。そして老女は生きを引き取り、少女は意識を取り戻す。この出来事を経験し、研修医も「先生」と呼ばれるようになる。よくよく考えてみなくても、お約束のような話なのかもしれない。ただそこまでのプロセスをいかに描ききったか、それが全てだ。小説でもゲームでも王道をとる、ということは結末がある程度、予測されるということだ。ならば、どこで他者を魅了するか、それがプロセスであり、細部のプロットであり、サービスとしてエピローグをつけたりするのだ。それらが一つのゴールを目指してつっぱしったとき、「王道」はとてつもなく強い。
・7月16日(月)
北方謙三『三国志:2』を読む。オリジナリティを見るべきなのは、呂布の描き方。呂布の女性観。呂布というと一日千里を駆る名馬、赤兎とともに傾国の美女、貂蝉が浮かぶ。が、彼女はここには登場しない。呂布は美女には見向きもしない。ただひたすら母親の姿を投影させている年上の妻のみを愛する。この妻がらみで丁原を斬り、董卓を裏切る。ちょっと新鮮だった。
・7月15日(日)
悪い知らせは唐突に来る。妹からのメール。私の小学校からの友人Sがストーカーで捕まった、とのこと。地元の読売新聞の茨城版で取り上げられていたそうだ。小学校の低学年の頃から、一緒の道場で剣道を学んだ仲だ。山を削って造ったゴルフ場。そこにいたるクネクネとした坂道を登ったところにSの家はあった。よくそこに進入してゴルフボールを拾ったりしたものだ。クワガタをとったりもしたし、ファミコンも一緒に結構遊んだ。確か、「闘いの挽歌」というソフトにはまっていたはずだ。中学でも剣道部だった。Sは遠間からの飛びこみ面と引き小手が得意技だった。レギュラーにはなれなかったけど、ユニークで、ちょっとエッチなそのキャラは憎めなかった。それでも高校が異なると、関係も疎遠になった。剣道も辞めてしまったらしい。私の方も、部活と受験勉強で忙しかったというのもある。そのころから、あまり良い噂を聞かなくなったような気がする。当時、まだ茨城の田舎には古臭い「生粋の」ヤンキーが生き残っていて、Sはそのグループに近づいていった。一方、私は高校卒業と同時に、東京のK大学に進学してしまい噂すらもきかなくなった。たまに帰省したときに、フリーターみたいなことをやっていると一度、耳にした。そして、Sは事件を起こした。まさか、という思いにショックを受けている自分と、心の何処かで妙に納得してしまっている冷めた自分がいるのが嫌だった。時が忘れさせるのは、傷だけではない。当時は楽しかった思い出や、友情なんかもいつのまにやら、セピア色よりも灰色に染め上げて、心のごみ箱に放りこんでしまうんだ。そう思った。Sの進んだ道と私の進んだ道。二つの螺旋はこういう形で交わった。その良し悪しは別にして、次に交わるのはいつのことかはわからない。もう交わることはないかもしれない。自分で自分に恥じない生き方を心がけよう。
・7月11日(水)
メジャーリーグのオールスター。イチローも佐々木もそれなりの活躍を見せてくれた。普段希薄な、日本人という意識。それを再認識させてくれるようなイベントは貴重である。
京極夏彦『ルー・ガルー』、R・ジョーダン『竜王戴冠:3』
・7月4日(水)
NHKの『地球に乾杯』カンボジア・クメール王朝特集を見る。世界遺産とか、この手の番組には詩想をかきたれられる。私の上司お勧めの『プロジェクトX』なんかも題材になる。クメール王朝の街ベンメリア、王都アンコールワットと同時期に栄えた街。当時は、商業、交通の要衝として栄華を誇った。その遺跡が密林に静かに佇む。案内人の先生が、very beautiful を連発していた。日輪背負いし金色の、塔は聳えしベンメリア。白い象が闊歩し、飛び立つことを忘れたガルーダは神の台座にて翼を休める。世界の初めに生まれし水の天女アプサラスが、祝福の歌を贈る。クメール人に幸あれ、と。
巨人、ヤクルトに連勝。上原は二試合連続の完投勝。勝ち星の差も一つと縮めた。清原は6月の月間MVPを獲得。サッカー、キリンカップ。日本対ユーゴスラビア。ユーゴのピクシーことストイコヴィッチの引退試合もかねる。94年に名古屋グランパスエイトにやってきて以来、活躍。日本サッカーに与えた影響は大きい。Jリーグ初期のジーコやリトバルスキーなどとともにJのレベルアップに貢献。本当に、ご苦労様でした。試合のほうは1対0で、日本勝利。
・7月3日(火)
蝉の死にある哀しみが……
夜、窓を開けたままで原稿を書いていると、灯りに誘われて訪ねてくる奴がいる。コガネムシだ。カブトムシより小さいカナブン。そのカナブンより、さらに小さいコガネムシ。田舎ではクワガタなんかも平気でよってくるけど、さすがに東京だとそうもいかない。コガネムシといえば、春先、マーガレットの花にたかるハナムグリがまず頭に浮かぶ。緑の甲に白い斑模様。小指の先より小さいそいつはせわしなく足を動かし蜜を捜し求める。今、私の部屋に来ている奴はハナムグリではない。鈍い黄色の服を着た奴だ。パソコンにむかっていると頭上をせわしなく飛び交う。あたりかまわず飛び回ってはぶつかり、落ちてくる。そして夜が明けるまでに外に出られなければ、畳の上にあっさり、死体となって転がる。魂とか、肉体とかそんなものの存在を微塵も感じさせないほど、本当に自然に、まるでそこに初めからあったかのように、横たわっている。なんの感慨もない。哀れさも、悲しみも、なにもない。プシュケ(ギリシア語、魂、蝶)は、あまりにも自然すぎるため飛び立つのを忘れてしまったかのようだ。
・7月2日(月)
なんじゃこりゃぁ、と叫びたくなるほど忙しかった。処理が追いつかない。おまけに日附印で左の人指し指を負傷。真鍮性の日附印に、私の爪はなすすべなく割れ、血が出てずきずきと痛む。ふんだりけったりな一日だった。
冷蔵庫が一杯だったため、一日、肉じゃがを出しっぱなしにしたらカビが繁殖。ショック!! ヤバイヤバイ、本当に気をつけなくては。
休日出勤。予定よりも時間をとられる。とりあえずのところで切り上げて先輩方より先に出る。うだるような暑さの中、走るのはかなりしんどかった。買い物。いろいろと物色しつつ、私はといえば、Illustrator9.0を購入。Photoshopもろくに使いこなせないうちに新しいものに手を出した。なんとか思うような絵が描けるように努力したい。
・6月30日
買い物に出かけようとしたら、雨が降る。かさがないのでそのまま帰ってきて、ふて寝。夕方、雨上がる。気を取り直して出かける。お買い得のごみ袋、50枚入り等、購入。結膜炎も全快で、元気になった友人Tとともに、スーパー、ナンバーワンにて安売り肉を購入。ちょうどタイムサービスで安くなった刺身も魅力的だったが、今夜のメニューは肉じゃがなのだ。味付けはちょっと薄め、醤油が足りなかった感じ。煮物はあんまり作らないのだが、そこそこの出来映えだった。
クールの変わり目でドラマが次々と最終回を迎える。今日は『明日があるさ』。曲のヒットに便乗してドラマまで立ち上げてしまうところが、今の日本のいいところでもあり、悪いところでもある。
・6月29日
さてさて、京極夏彦の書き下ろし『ルー=ガルー:忌避すべき狼』を読み始める。しばらくはつきっきりだろう。
・6月28日
訃報が西から届いた。ムーミンシリーズを手がけたヤンソン氏が天に召された。ムーミントロールの名前で不思議な妖精を世に送り出して半世紀、世界中にてムーミンは親しまれてきた。かく言う私も、本で、アニメでムーミンに親しんだくちである。ムーミン、ムーミンパパ、ママ、ミー、スニフ、フローレンにスナフキン。彼らのキャラは今でも至るところで顔を出している。冬の間、雪深いムーミン谷は春を目指して眠りにつく。願わくは、その片隅にヤンソン氏の魂がやすらがんことを。
・6月27日
大掃除。出しっぱなしの炬燵布団をかたずける。床を磨き、畳に掃除機をかける。明日の、「部屋消毒」に備え、台所の食器類、パソコンから、書棚から、新聞紙で防御を施す。就寝、3時。
・6月26日(火)
ローズマリ・サトクリフの『アーサー王と聖杯の物語』を読む。さてさて、卒論のテーマが聖杯の騎士、サー・ガラハッドだった私にとってこの書はあまり面白い視点を与えてはくれなかった。しいて上げるのなら、ランスロットの描写。この世界での「最高の騎士」というものが宗教的な称号であることを理解しきった上で、サトクリフはランスロットをはじめ、「湖のランスロットはみにくい男だった」と描写する。もちろん、王妃グウィネヴィアとの不倫がその背後にはある。しかも年齢が特定されている。45歳、壮年期は過ぎ去ろうとしている。これも意外と新鮮だった。総合的に見て、初めてアーサー王に触れる人にとってはまあまあ、勧めることができる。
年に一度の巨人戦、札幌シリーズ。中日に勝利。パリーグはいつのまにやら、近鉄が首位に。開幕前の予想では解説者のほとんどが最下位に予想していたのにだ。夏をこのまま乗り切れるだけの力があるだろうか?
・6月25日(月)
実家から新ジャガが送られてくるのを見こして、「にくじゃが」にでもチャレンジしてみようかと、みりんと肉と野菜を買ってきたのに、荷物はまだ届いていなかった。がっくり。都議会選挙、自民圧勝。小泉効果とニュースは騒ぐ。票のうち、「小泉」とだけしるされたものは、比例代表の方で、小泉姓の方の票として数えられてしまうらしい。
・6月24日(日)
昨日に引き続きDVDにて『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観る。カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)をとった感動作なのだが、個人的には涙は流れなかった。が、ミュージカルシーンの音楽と演出の出来は最高点をつけても良い。やはり、子を持つ母親の気持ちというものは母親でなければ分らないものなのだろうか。いまいち納得できなかった。
・6月23日(土)
DVDにて『グリーン・デスティニー』を観る。感動したとか、そう言うこと以前に、とにかくアクションが凄い。『マトリックス』を手がけたユエン・ウーピンが演出しただけあって、今までの香港映画なんかに比べたらずば抜けた出来映えに仕上がっている。音楽はチェリストのヨーヨー・マ。その旋律が作品の深みを増す。
・6月22日(金)
なんと、あの幼稚園での女性教諭が50代の女に切りつけられた、という事件は彼女の狂言だった。なんでもその日、幼稚園に提出する書類が間に合わず、とっさにやってしまったとこと。あきれて、ものもいえない。さらに日本各地で小学生が狙われる事件が多発。この日本の未来を案じたくなる人の気持ちもわかろうと言うものだ。一方、国会答弁での外務省、真紀子、宗男のダブルM討論のちぐはぐさ。宗男さん、あなたは「家族でも使用人でも敵」でもない、国民の選んだ代表者なのだ。ほんと、頼むよ。
・6月21日(木)
北方謙三『三国志』一の巻、天狼の星を読む。三国志は吉川英治の占める割合が大きい。で、読み始めてまず思ったのが、人物の描き方。とくに、劉備。北方謙三の作る劉備は、吉川英治の劉備に親しんでいた私にとっては、まったくの異物だった。天の時を得た曹操、地の利を得た孫権、そして人の和を得た劉備。劉備といえばまずはその「人徳」っていうか、「人間臭さ」が第一のイメージだ。でも北方の劉備はそれに輪をかけて人間臭い。そして怒りをうちに秘めている。男の怒りは公憤でなければならない、とは以前どこかで聞いた言葉だが、まさしく公憤であり、それを貫くためには、人をなぐる、けるもいとわない。で、張飛や関羽が、「兄貴、それは俺たちの仕事だぜ」と止めに入るわけだ。この普通は逆だろう、というギャップが、彼独自の三国志にちょうどいい雰囲気をもたらすのだろう。
7月7日に、飲み会をやろうということで、友人Eがうちのパソコンで飲み屋情報を検索。と思いきや、いきなりアンティークショップのページにアクセス。自分の趣味を堪能して帰っていった。昔の火鉢棚とかそんなものなのだが、彼にとっては宝物に見えているらしい。自分も変わっているんだろう、と自覚していても、「お前って、変わってるよな」とつい言ってしまいたくなる、11時前でした。
・6月19日(火)
蒸し暑い。そろそろ扇風機をだそうかな、と思う今日この頃。最近、SMAPの「オレンジ」がfavorite で、よく聴いてます。一緒に入ってる「らいおんハート」もいい曲だけど、「オレンジ」は、また違った雰囲気でいい。もちろん、別れの歌なので切ないんだけど、つらくても相手を思いやる気持ちがこもってて好感がもてる。
R・Jordan の『竜王戴冠』2巻を読む。さてさて、「時の車輪シリーズ」も着々と巻数をかぞえ、これで25巻。最初はとっつきにくかった話や単語も、いまではすっかり顔なじみになってしまいました。月刊となったこのシリーズは、先日のグインとともに、今では私の読書録ノートの一里塚みたいなものになってしまいました。ちょうど発行のスパンがきまっているので、その間に何冊読んだとか、どんなものを読んだとか、今月は少ないなとか、漫画ばっかりだな、とか……いろんなことを考えます。ちなみにグインの25巻はどんな話だったのかな、と調べてみると、タイトルは「パロのワルツ」。ノスフェラスの秘密(=グインサーガ世界の秘密なんだけど)を握るkey person 黒太子スカールを巡っての物語。ちなみに他の人物は何をやっていたのかというと、イシュトヴァーンは赤い街道の盗賊として売り出し中。グインはケイロニアにて傭兵時代。それが今や、二人ともゴーラ、ケイロニアの王なのだから、時の流れをかんじますね。
田中外相が訪米を終えて帰国。彼女は、途中で、母校にて旧友たちと親交を温めなおしたそうだが、その一幕から。日本の話題に関して、田中外相からのクイズ、「今、日本で一番の輸出品は何か?」 答えはbaseball player 、ウィットが利いてて思わず苦笑。
映画の話。最近、映画館にいってないよなぁ、とは上司の弁。いつ以来ですかと聞けば、「ジュラシックパーク」(しかも1)以来だという。う〜ん、それっていつだっけ? とすぐに思い出せない。で、自分を振りかえってみるに私も、最近は映画館にはいってない。なんだろ、「グラディエーター」が最後か? その前だと、「どら平太」か? 「グリーンデスティニー」とか「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とかはなんだかんだと観にいけなかったし。
・6月17日(日)
午前中仕事。保険の説明。私は大して何も出来ず、勉強することの方が多かった。さて、午後から秋葉原にてノートパソコンを購入。VAIOなんですが、PentiumV850MHzにHDは20GB。展示品限りと言うことで、一万ちょっと安くしてもらいました。
『グインサーガ』79巻読む。やっぱり、グインが出てきて、戦が始まると面白い。話が生き生きとしてくるもんね。栗本薫は、ここまでがひょっとしたらプロローグ、みたいなことをあとがきで書いているけど、ほんと、残りあとわずかになって、コマは出揃ったって感じなんでしょうか。ナリスとレムスの真っ二つにわかれた「中原の宝石」パロを舞台に、グインのケイロニア、イシュトヴァーン率いるゴーラ、そして竜王ヤンダル・ゾックのキタイ。しぶとく生き延びてたタルー王子なんかも出てきちゃったりして、おっ! というストーリー。でも、グインが妻シルヴィア(のヒステリー)に頭が上がらないのは相変わらず。ハゾスならずとも、読者なら、チラッとはグインとオクタヴィアのカップリングというのを考えてしまうものです。まあ、そういかないから話は面白いのですが。
清原、1500被奪三振。史上四人目の記録だそうで。まあ、良いんだけどね。勝ったから。「うるぐす」で江川が今日の試合のMVPは、先発の河原の継投タイミングを読んだ宮田ピッチングコーチだ、と言ってたけど、どうかと思う。確かに球がすっぽ抜け始めた以上を読み取ったのはいい。でも、そのあとに出した柏田がねぇ、ああも簡単に打たれちゃ、だめでしょ。岡島君は頑張りました。これで悪夢の7連敗があった6月も、勝率は五割となりました。
・6月16日
おっと、今日は、J・ジョイスの『ユリシーズ』の主人公、ブルームにちなんだブルームズデイ。彼の故郷アイルランドでは、ちょっとしたお祭りみたいなものらしい。日本にはないよな、こういうの。お札とか切手にはなったりするけどさ。ユリシーズは、まだきちんと読了したことが無い。以前、挫折した経験がある。邦訳は丸谷才一氏らが手がけたものがあるが、邦訳を読んでもよくよく分からない。池内紀氏は確か、ブルームとは実は人ではなく、犬なのではないか、という論を展開していたほどだ。犬の視点から見た人間界の一日なのだ、と。翻訳する、とは即ち、意訳するということでもあるが、大岡信氏はその著『詩の日本語』の冒頭の章でボードレールの詩『信天翁(アホウドリ)』の上田敏訳を引き合いに出して、翻訳とはこんなにも難しく堅苦しくやらなければならないのか! と驚きを覚えた、と記している。ヴェルレーヌの有名な詩に「落葉」(上田敏訳)というのがある。「秋の日の/ヴィオロンの/ため息の/身に沁みて/ひたぶるに/うらがなし」というのが上田訳。一方、我等が仏文科の先輩、堀口大學はこう訳している。「秋風の/ヴィオロンの/節ながき啜り泣き/もの憂きかなしみに/我が心/傷つくる」。原詩に忠実なのはどちらかといえば、後者のほうである。例えば、私もそうだったのだが、有名な上田訳だけしか知らないと、冒頭には明確にヴァイオリンが存在している。しかし、原詩と照らし合わせてみると、ヴァイオリンの音色というのは秋風の音の比喩であるのだ……
・6月15日
友人と食事。いろんな話。いろんな所にいかせるといい。
・6月13日
これを書いている現在、窓の外では暴走族(?)なのか、けたたましいエンジン音を響かせて数台のバイクが走り去っていった。部屋にいる時に聞こえてくる音、これはいつか短篇に書いたことがある。確か、大学二年の授業課題だったかな。夏、外は嵐が吹きすさぶ。私は寮の部屋から一歩も外へは出ない。停電で、テレビも映らない。閉ざされた個室と外界を繋ぐものは、南の窓と北の扉。でも、私はそこから出ていく気が起きなかった。で、耳を澄ませるわけだ。最初はさまざまな音が入り乱れて入ってくる。そこから、いくつかが心にとまり、目を閉じるとそれに、イメージが重なる・・・・・・そして、最後にくしゃみ一つ。これで御破算。私の足は、お腹がなる音に急きたてられるように食堂に向かうっていう話だったと思う。なんだろ、ジョイスの「意識の流れ」みたいなものを真似して書こうとしたのかもしれない。
・6月12日(火)
肉野菜炒め。肉は豚肉が安くなかったので、隣で販売していた二袋289円のウインナー。野菜は人参、茄子、キャベツ、もやし、ニラ、にんにくの芽、玉葱等、とりあえず、栄養がありそうなもの。ちゃっ、ちゃっと塩、胡椒をして、軽く調理酒をふってアルコールを飛ばしたら出来あがり。タレは、エバラの焼肉のタレを、私好みに幾つか適当にブレンドしたもの。皮むき器で、人参の皮がすらすらと剥けたことにさえ感動していた頃が懐かしい。 野菜炒め、というと、私は友人Hを思い出す。髭を伸ばすとオウムのA原氏にそっくり。某T大学の哲学専攻で、確かヘーゲルが専門だったかな。私が哲学に興味をもった動機の多分、30%ぐらいはHの影響かもしれない。今でも、T大生って聞くと、Hの顔がまず浮かんできてしまう。で、そのHが、休みの日になるとちっちゃな学生寮の台所で野菜炒めを作るのだ。で、決まってにんにくの芽を炒めるもんだから、その匂いが廊下を伝って充満してくる。当時、私は3階にすんでいたのだが、下手をすると、1階辺りまで匂っていたことがあった。だからというわけでもないのだが、今、私の目の前にある野菜炒めにもにんにくの芽が入っている。
・6月11日(月)
私の知人Kさんの愛犬は、14歳。人間の年齢に置き換えると、74歳。瞳が蒼いんですね、と訊く私に、「いや、それは白内障だからだよ。いつのまにか、あたしよりも歳、とっちゃってねぇ〜」、とKさんはしみじみと話す。14年も一緒にいるとホントに家族なんだなと感じる、そうだ。私がお世話になっている寮でも寮長夫妻が、チワワを飼っていたのだが、昨年の11月に静かに息を引き取った。当時、私は肺炎一歩手前の風邪にダウンしていて、部屋で寝たきり状態。お昼におかゆを運んできてくれた寮母さんの目に涙が浮かんでいるのを見て、びっくりしたのを思い出す。涙を拭きながら、ごめんね、と言う寮母さんに事情を尋ねると、愛犬チビがたった今、天に召されたとのこと。私の状態も酷いもんだったけど、寮母さんの哀しみは心の痛みだ。家族が亡くなったのに、私の看病をしてくれた寮母さんには感謝してもしきれない。その後、きちんと火葬され、チビは安らかな眠りについた。
・6月10日(日)
サッカー、コンフェデレーションズカップ決勝。日本はフランスに0対1で惜敗。巨人は阪神に三連勝。七連敗の悪夢を少し忘れて一心地つく。PS「ティアリングサーガ」をクリア。レベルが低かった分、かなり苦労した感じ。話の展開としては、期待していたほどではなかった。もっとストーリーを練りこまなくちゃ。話が世界設定に負けてる。描ききれていない部分が多かったのが残念。シレジウスの瞑想詩集に「愛は神を屈服させる」とあるけれど、二人の愛が邪神に勝つ、みたいな結末。悪いとはいわない。王道だから。これをとる以上、そこに辿り着くまでの過程をもっと重視するべき。
サマリアナ・サガ解釈ノート整理。
宮部みゆきの『レベル7』を読み始める。結構、楽しめそう。
・6月9日
後輩Hに貸していたPS2が戻ってきた。二人で創作ネタの話。現在作成中のシナリオの登場人物名を考える。しっくりくるまでもう少し、練り直す必要がありそうだ。新宿紀伊国屋にて、書物購入。現代思潮新社が40周年記念に「知の反世界」と題して刊行しているなかから、宇野邦一著『詩と権力のあいだ』を。詩集の書架から『カヴァフィス全集』を。洋書架からは邦訳は読んでいるのだが、原書にもあたってみようということで、Robert Jordan, The Eye of the World の第1巻と、世界設定集をそして、Marion Zimmer Bradley, Priestess of Avalon を。カヴァフィスの詩集をぱらぱらとめくってみると、「イタカ」という詩が目についた。イタカとはもちろん、オデュッセウスの故郷のあのイタカである。その第一聯はこう始まる。「イタカに向けて船出するなら/祈れ、長い旅でありますように」と。ここで面白いのは、美しい妻をイタカに残していたため、トロイアからの帰り道を急ごうとしたであろうオデュッセウスの姿とのギャップだ。この一点において、まず引きつけられた。第二聯はそれを受けて「祈れ、旅が長くなりますように」と始まる。オデュッセウスの想いはどうするのだろう、か。そう考えつつ第三聯、「イタカを忘れちゃいけない/終着目票はイタカだ/イタカがなければ船出もできまい」において主題が見えてくる。そして結の第四聯、「旅の終わりには賢者になるだろう/その時にはイタカの意味がわかる/おのおのにとってのイタカの意味がな」。カヴァフィスの視点は、オデュッセウスの波乱万丈の航海、セイレーンの歌声やキケロの魔女、羊の腹にしがみついてサイクロプスの洞窟から逃れたというような周知の話を読者が想像するのを見据えた上で、ゴールである「イタカ」の側から眺めているのだ。そして「イタカ」を浮彫りにすることによって、故郷の持つ意味を詩に載せている。
・6月8日
有給休暇。家にて過ごす。マクドナルドの『リリス』を読み返す。最後に彼はノヴァーリスの句を引いてこの作品を閉じている。初期の作品『ファンタステス』も同様に、ノヴァーリスからの引用で締めくくられているそうだ。W.H.オーデンは彼の作品を評して、「ファンタジー」ではない「夢の文学(Dream Literature)」とよんだ。そのラストを飾るのにシンボリックなノヴァーリスの詩を引用するというのは、ある意味、収まりのよい形なのだろう。さて、余韻を残す小説のラストといってすぐに思いつくのは吉川英治の『宮本武蔵』である。巌流島での佐々木小次郎との決闘に関して武蔵を嘲笑するような噂が述べられた後、こう締めくくられる。「波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い、雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」 これだけ書かれると分かりずらいかもしれないが、8巻通して読んでみて、最後のこの文章に触れて心に響かぬものはいないだろう。武蔵は雑魚ではない、まして深海に潜む大魚でもない。その魚たちを包む水、世界そのものである。森羅万象と解け合った、個を超越した存在にまで高められている。
小学校にて殺人事件。サリン以来の死者数が出てしまった。犯人は精神病。やるせない。小学二年で命を絶たれてしまった八人の子供たちの冥福を祈りたい。
・6月5日
久方ぶりに時代劇『剣客商売』を観る。勧善懲悪の時代劇とは違って、ドラマチックで、人情味溢れるストーリー展開と、主人公、秋山小兵衛の食通振りも見所の一つだ。原作は、そのシーンを読むだけでよだれが出てくるような、池波正太郎のこだわりが見て取れる。それをみやりつつ、炒めたウインナーとプレーンオムレツ、納豆と漬物という夕食を済ませた私は、アテナイオス(2世紀ローマの人、名前以外は不明)が記した奇書『食卓の賢人たち』(岩波文庫)にとりかかった。その中に酒を巡る話題が幾つかある。最近は、日本酒よりもウイスキーをロックで嗜むようになった身としては、酒を五対二で割って、当時のローマ人たちが飲んでいたというのはあまり賛成しがたい。まあ、原液がどれほどのアルコール度なのかにもよるのだが・・・・・・たとえば90%以上のスピリタス、ウォッカ(ロシア語で命の水ですね)を原液では飲めないし、飲みたいともおもわない。まあ、口の中を消毒したいのなら話は別だが。で、当時のローマでは割らずに飲むことを、スキュティア風で飲む、といったそうだ。スキュティア人は酒を割らずに飲んでいたためだ。明日は、間違いなく職場の皆と飲み会になるだろう。酒を頼むとき、「スキュティアで」とくちずさもう。その後にくりひろげられる「場」。これは話のネタになりそうだ。
昨日、郵政民営化へ向けて小泉さんが本格的に動き出した。「郵政三事業のあり方について考える懇談会」のメンバーは、その半数以上が民営化支持者たちだ。360兆円もの資金を運営している国営の組織は他に例をみない。これと人員問題なども絡めて、どのように料理していくのか、反対派のでこぼこまな板に、刃こぼれした、懐刀の真紀子包丁。小泉シェフの采配はいかに。
早いもので、もう六月。諸事情により、携帯が不通。家族一同に迷惑をかける。弟が昇段審査に合格。剣道、三段。良く頑張ったものだ。前回は二次審査の「型」を間違えて落ちたといっていたので、今回は合格するだろうと思っていた。
・5月31日
深夜。仕事の論文を仕上げる。おやすみなさい。
・5月27日
収穫したアサリを味噌汁へぶちこむ。一晩、砂抜きしてたけど、結構、じゃりじゃりする奴があった。袋一杯のアサリ。三分の一を消化した。残りは……
・5月26日
職場の皆と、木更津へ潮干狩りにでかける。ガリガリ掘って、結構楽しくやれました。でも、風が強かったのには閉口。
・5月23日
雨天。水差しの花が薄ピンクの「カラスノエンドウ」から赤い「つつじ」に変わった。週替りの植物を愛でるのもまた快哉。富山で起こったコーラン破棄を巡る一連の騒動に宗教の強さ、怖さを感じる。興奮しきったイスラム教徒の一人が流暢な日本語で「やられたら、やりかえす!!」と熱弁を奮い、抗議している姿が心に残る。日本人の常識など到底およばぬ世界を垣間見た。
・5月22日
1週間ぶり。母から電話あり。もろもろしゃべる、情報交換。妹もあと1年もすれば手がかからなくなるので、余生は夫婦水入らずで愉しんで欲しい。最近、生活のリズムがずれてる。修正が必要。コンビニのバニラヨーグルトがおいしい。デザートに食す。あとは、から揚げ弁当が最近の定番になりつつある。1年たっても料理のレパートリーはちっとも増えていない。強いていえば、カレーにいれる具のバリエーションが増えたくらいのものである。
・5月15日
先日、池袋サンシャインにて購入した古本『トリスタン伝説』に著者である佐藤輝夫先生のサインを発見。感激!!7000円は報われた。母校であるK大学のオンライン・サービスに登録。友人達も何人か、このサービスに登録している。窓際で読書をしているときのこと。椅子が壊れる。100円ショップで買ったビニールシートと鉄パイプだけの簡易椅子なのであまり惜しい気もしないが、今日から腕立てと腹筋を再度始めることにする。学生時代は結構やっていたのだが、就職してからはさっぱりだったので結構きつい。いきなり100回は厳しかったので、50で切り上げた。上野にはいかずじまい。ホームページのヒットカウンタがどうしてもうまく機能しない。なぜ?
アリストテレス/ホラティウス『詩学・詩論』を読む。卒業論文以来か。Ut pictura poesis. (詩は絵画と同じ)というフレーズが懐かしい。マリオ・プラーツの『ムネモシュネ』も懐かしい。さて以下の一節を心にとめて、明日からまた頑張りたい。
Multa ferunt anni venientes commoda secum, Multa recedentes adimunt.
・5月14日
月曜日。仕事をはやく切り上げて、くつろぐ。6時代に帰ってきたのは久しぶりかも。昨日から引き続き、CGに取り掛かる。PhotoShop.Ver6.0 で描いているのだが、まだまだ思うようにいかない。友人からおしえてもらったCG講座のページをみて勉強。己の技術がぺエペエだと知る。明日、は有休。天気がよかったら上野あたりにでも出てみようか。この前、みれなかったイタリア文化展の方をみたい。
・5月13日(日)
オリジナルGM製作の話。ストーリーを皆で持ち合いああでもない、こうでもないと話し合い、結局、大した事も決まらなかった。一度、整理してみる必要がありますね。ただ、私が考えてると、どうも話が暗くなるそうなので、もちろん、ラストは希望に満ち満ちた(?)結末にはするつもりなのですが……それまでの過程がね……難しいもんです。で、その参考までに『カミの人類学:不思議の場所をめぐって』(岩田慶治著、講談社、1979)を拾い読みしてみたんですが、こいつが結構おもしろい。まず、昼、夜、時間、夢、とか、実際にゲームにしようかと話していたネタが考察されている。人類学者の著者はフィールドワークも精力的に行ったようで、レヴィ=ストロースよろしく、各地の民族(まあ、主にアジア系だが)が登場してくる。後半は数秘論に関するようなことをかいている。エリファス・レヴィに出会う前の私だったら、興味津々で読んだことだろう。柳田国男の論文『妹の力』にもあたってみなければなるまい。
・5月11日
サナダムシダイエットを知る。オペラ歌手マリア・カラスはこれによって100キロ超の体重が55キロにまで減ったと推測される。すなわち、寄生虫であるサナダムシの幼虫を自ら飲み、腸へと寄生させる。人によって症状は異なるが(下痢で終わってしまう人もいるらしい)、サナダムシはそこで宿主の栄養を吸い取って伸びる。一日で20センチものびてしまうというから驚きだ。人間の腸の長さはかなりのものだが、でもその中に12メートルにもなったサナダムシが潜んでいるっていう図はいかがなものか……まあ、痩せたいと願っている人にとっては背に腹はかえられぬ、か。さらに解説のおやじさんの話によると、寄生虫がいることで人間のアレルギーを押さえる効果があるらしい。人の中に寄生虫が入ってくれば、当然それは異物であるから人の体内では、白血球が働くごとく、それを排除せんとするIG抗体が形成される。これでは寄生虫は生きていけないので、寄生虫自体が人に働きかけて変形IG抗体を「作らせる」。この変形IG抗体を生成する過程でESCという物質が生じ、それがアレルギー反応(アトピー、花粉症)を押さえる効果がある。このESCという物質を注射することによって、人は上記のアレルギーを克服することが出来るのだが、こいつを過剰に取りすぎるとなんと癌になってしまう。これでは使えない……おやじさんは残念そうに話していた。
『Kanon』に手をつける。ストーリーの展開には目を見張るものがある。こちらの予測する話の構造をさらに超えていて、むしろ私自身がいかに陳腐な思考をしかもち得なかったか反省。まあ、こんなもので反省しなくてもよかろう、という反論はあるだろうが、とりあえず、今だけは。
・5月9日
休日。昼頃起床。『祝詞(のりと)』を眺める。『古事記』を読もうと思ったのだが、こっちの方がとっつきやすそうだったもので……さて、こいつは今の私の知識からすれば、日本版『アタルヴァ・ヴェーダ』とでもいえようか。インドの様々なまじないを収録したアタルヴァ・ヴェーダは、主に1、2行の文句からなるまじない録である。悪魔払いから、人を呪殺せんとするもの、下痢を治すものなど、へえ、こんなものまで、と唸らせるその多種多様さに読み物としてのおもしろさがある。もちろん、小説の参考資料ともなる。『祝詞』を読もうとしたきっかけも多分に、参考資料としての趣が強い。さて、日本という国は明治維新からヨーロッパ文化を手本としそれをより優れているとしたため、わが国独自の文化の流れを一度、断ち切ってしまっている。その影響か、古典に対する知識が圧倒的に不足している。先進国の中では珍しい。もちろん、オックスフォードでさえシェイクスピアを必修科目からはずしてしまうご時世だ。日本人に『古事記』を理解せよ、という命題は、英国人に『ベーオウルフ』をOEの原文で理解せよ、という命題とそれほど大差ないのかもしれない。
・5月8日
曇天。鏡の前のツツジがしっとりと、淡光に映える。
・5月6日
連休最終日。良い天気。ずっと出っぱなしだったので、今日は部屋でくつろぐ。後輩Sに勧められた漫画『ハチミツとクローバー』を読む。ぜったいオススメといっていた奴の言葉はうそではなかったと識る。昼過ぎ、散歩、風強し。半袖良好。掃除洗濯、本棚整理。リリカルな午後は過ぎていく。夕方。さそうあきら『神童』を読む。心が開き、体が震えた。作品として音をどう言う風に料理するか、この作品はわたしに大きなヒントを与えてくれた。
・5月5日
大学時代の友人たちと横浜中華街へ。いまではすっかり「作家」になったIさん、金沢帰りの友人S、これから会社を興そうという友人U、後輩Hに私の五人。萬珍楼にて昼食。その後、山下公園にてくつろぐ。穏やかな陽射と柔らかい海風のもと、芝生の囲いに腰を落ちつけ、鳩に餌付けする少年や、しゃぼんだまの舞いとぶさまにはしゃぐ少女をみていると心が和む。そうして交わす旧友たちとの会話。いろんな話があったけど、多分に気心のしれたやつらと過ごす時は、芝生の緑に映えて、ともすると思索に耽りそうになる私の耳に囁く。そして私はいわゆる「元気」というやつを貰ったのだと思う。夜、サークルの仲間と合流。うち合わせ。ものごとの始まりは今日の日付を刻むだろう。
カフカの『変身』においてザムザは何になったのか、でもめる。私は「ゴキブリ」を主張し、Hは「ムカデ」を主張した。Iは私と同じくゴキブリ。手元の資料『カフカ:身体のトポス』を漁ってみると、明確には言及されていない。解説を書いていたうちの一人が「ゴキブリ」説を取っていた。問題の Ungeziefer(独) とは、毒虫あるいは害虫の意である。
遅れ馳せながら、渡瀬桂子『プログラム・パラダイス』を読む。
GWの谷間。仕事多忙。小泉内閣の支持率88%というのには、いくら前がひどかったからとはいえ驚かされたが、帰宅後テレビをつけて眼に飛び込んできた数字のほうが疲れた心にはショックだった。巨人VS中日、0対17。すぐにスイッチを切り、カップラーメン(豚キムチ)をすする。四月、失点、チーム打率、数字だけを見ればそれほどよくない巨人。他球団の不調により相対的にロケットスタートをきったが、五月は一筋縄ではいかないらしい。がんばってくれ、ただひたすらそれだけである。友人Mに電話。警察学校は厳しいそうで、仕事と休みとの区別がつかないよ、とはMの談である。
・4月30日
帰省終了。GWの前半終了。東京へと向かう高速バスにてT君に再会。向うはすぐに私だと分かったそうだ。高校のときに何度か会ったくらい、ちゃんと話したのはかれこれ、中学以来だろうか。懐かしい。T君にはいろいろと世話になったし、仲もよかった。思いでもいろいろとある。私が生徒会に立候補したとき、応援演説をうってくれたし、尊敬する先生が転勤となったとき、本当の涙を彼は流していた。それが今でも印象的で、忘れられない。今は主に日テレでADをやっていて、噂にたがわず多忙な日々を過ごしているそうだ。「波乱万丈」とかその他、もろもろの番組製作に関わっているとのこと。高速バスは本数も少ないので、たまに利用するとこうやって旧友に逢うことができる。快哉。さて、もう一人、懐かしい友人から連絡あり。友人Sは、石川県金沢市に就職したとのこと。
・4月29日
田には水が張られる。しろかきがすめば、間もなく田植えが始まる。薫風というが、梅、桜ときて薫るのは、陽光に照らされた大地のほの甘い匂い。柚子の古木にかかる山吹のなんと鮮やかなことか。雨を待つかえるの声さえ心地よい。今となっては足を向けるものとて少なくなった、叔父の墓に一人、参る。俳人薄井道月(我が祖父)の句碑に向かう。夕べ。甘いタラの目の天麩羅を食したのち、湯船にどっぷりとつかる。東の窓を開けると、もちの樹が高々と聳え、かなたに真弓山を望む。故郷はよい。故郷は愛すべきである。
妹の書棚より『オルフィーナ:1〜8巻』読む。
・4月28日
図書館に一日缶詰。資料をあさる。リズムに関する考察について興味深い本を読む。リズムに関しては以前から「波」「識晶術」の骨子形成において注意を払っていた。
クラーゲス『リズムの本質』(みすず書房)を読む。
・4月27日
夜半、弟の車に乗り、帰省。2時頃、到着。常磐道ではなく、東関道を帰ってきたので、普段より1時間ほど遅い。『スクリーム3』を観ていた妹に軽く挨拶、調子が悪いというプリンタを調整。風呂に入って就寝。
・4月25日
米テキサス大学がん研究所のポール・シンシリピニ博士らは「たばこをやめられないのは遺伝子のせいだ」とする新説を発表した(25日付、朝日新聞)。博士等は脳内の神経伝達物質ドーパミンを受け入れるDRD2という遺伝子構造を調べ(男女134人対象)、対になっている遺伝子のうち、両親からA1という型を受け継いでいるものは4ヶ月禁煙した後でも再び吸い始める傾向にあり、A2という型をもつものは禁煙に成功しやすい、ということを確認した。実験対象が134人というところでは、いまいち結果の信憑性は低いだろう。さらなる研究を望む。さて、私の知人にも禁煙を公言しつつ挫折している人が何人かいるが、彼らにとってこのニュースは朗報なのだろうか? 私個人としては、煙草を吸わないので、禁煙というものを軽く捉えがちだが、ニコチンを求める喫煙者にとっては禁煙はそうとう苦しいらしい。私の父も家族全員から禁煙するよう言われつづけているが、ホタル族(ってこれはもう死語ですね)を貫いている。
電動式車椅子に乗った男性が三頭の猟犬に襲われ死亡した。新聞片手に何気なく聞いていた私の耳に衝撃が走った。日常を転覆させる恐怖。その紙一重の緊迫感をヒッチコクは名画「鳥」で描いたが、このニュースもそれに勝るとも劣らない。生きながらかみ殺されてしまった男性の恐怖と痛みはいかほどだったろう。神であるプロメテウスでさえ、大鷲に肝臓を食われ続ける苦しみには耐えがたかったというのにだ。神話ではヘスペリスの園へと向かうヘラクレスが助けに訪れるが、かの男性にはヘラクレスではなくハデスがその手を差し伸べた。犬は太古より我々人類のパートナーとして、様々な進化を遂げた。それは多くのプラスをもたらす反面、さらなる危機を育んでいたのだ。飼い犬に噛まれる、という表現があるがまさしく警鐘が鳴り響く。関係無いけど、ムツゴロウさんだってライオンに噛まれてしまうご時世なのだ(まあ、あの人の場合はかなり特別だけど)人が創り出した文明文化。我々は常に正しい付き合い方を考えておかねばならない。
犬、については以前、ベンヤミンの著作からそのリアルさについて書いたことがあるが、今、手元にあるルナールの『博物誌』に描かれる犬ポワンチュウは愛玩犬だ。「ポワンチュウはぬくぬくと暖まり、手を焦がし、尻を焼きながら、唸りたいのを我慢して、じっと泣き笑いをしている―――目にいっぱい涙を溜めたまま……」彼が涙するのは、自由に憧れつつも、ここを離れては生きては行けぬことを知っているからだろう。人のエゴが作り出した愛玩犬。中世ロマンスの時代には、金髪のイズーもトリストラムに愛玩犬を贈っている。
・4月22日
昼間、仕事を片付ける。散歩がてら本屋を梯子。遅れ馳せながら『星界の戦旗V』を読む。ご無沙汰の最新刊である。私がこのシリーズを読み始めたのがちょうど1年ぐらい前。Uが出ているのはそれよりだいぶ前のことだから、中には本当に首を長くしていた人もいるだろう。で、相変わらずのルビの長さに苦戦しつつも読了。これにはほんと作者の森岡氏に頭が下がる。ジントとラフィールの間には恋人同志っていう表現ではなく、なんていうか運命共同体というか、一緒にいるのが当たり前の関係が築かれていて、たまにみせるラブラブ振りが心憎い。例えば、複数言語が描かれ、交わされているのも本書の特徴だと思うが、その状況をうまく使ってジントがラフィールに、「わたしは彼の大地となり、彼をわが大地としよう」とジントの家族に対して言わせる場面(彼女はたんにジントのことは私に任せろ、ってことをいいたかっただけなんだが)とかね。話としては、猫のディアーホによる一つの枠を設けている。スペースオペラと銘打っているので田中芳樹の『銀河英雄伝説』なんかを連想してしまうが、方向性は大分ちがう。休暇ということもあって、今回の話では死者が一人もいないのではないか? 話はまだ続くそうで、次巻ではまたジントとラフィールの活躍が見られるであろう。
自民党総裁選挙は、地方票のうち6割を獲得して、小泉氏が圧倒的に有利な展開。派閥にうんざり、という世論をうまく汲み取った成果だろうか。ここまで独走するとはちょっと予想外だった。氏の政策には職業がら、注目したい。
『火魅子伝6』『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』を合わせて読む。きちんと史料を引用しているのに少し感心した。
・4月20日
「北海道ウタリ協会」理事会は名称を「アイヌ協会」に戻すよう来月の総会に提案することを決めた(19日付、読売新聞)。1930年に発足し、1961年にアイヌという言葉が差別的に使われてきた歴史をかんがみて変更していたのが、元に戻る。近所の古本屋の書架にもアイヌ文化史など、アイヌ関係の書籍が数冊並んでいる。値段が少し張るので手を出せず眺める程度に甘んじている。手元にあるアイヌ関連の書籍というと岩波から出ている『アイヌ神謡集』(知里幸恵編訳)だ。わずか十九歳という若さで、逝ったアイヌ女性の本当に詩才溢れる一冊である。梟の神の「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに〜」("Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan.")という冒頭の謡に惹かれて手に取ったことを思い出す。その作品群のもつイメージは、童謡のような、宮沢賢治の作品のような、澄んだ夜空に瞬く星と、緑濃き実り多き豊かな大地に宿るユニークな神々の饗宴でもって心に迫ってくる。大正ロマンの時代に病にて散った、若き乙女の遺稿を読み返し、彼女の冥福を祈るものなり。
宮城谷昌光『太公望:上中下巻』読む。
・4月16日
詩の編集が進まない。ホームページの方も週に最低一つは更新するようにする。できれば他のページもあわせて毎週更新するようにしたい。NHKにて、ローマ五賢帝について見る。マルクス・アウレリウス帝登場。映画、グラディエーター以来、興味が湧く。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』にて五賢帝の時代を人類の最も幸福な時代と書いているそうだが、その五賢帝最後がマルクス帝なのである。あいにく手元にギボンの衰亡史は五巻しかなく、確認できないのが残念。時代が二百年は違う。
小林秀雄『近代絵画』読む。ボードレール論の項に、詩について興味深い記述あり。詩と絵画の関係は私の卒業論文の一つのテーマでもあったので考えるところ多い。
・4月15日
晴天。布団を乾す。陽の匂いのする寝床はふかふかとして快適だ。論文資料収集。『切手は語る』購入。他に『陰陽道の本』『道教の本』『三国志軍事ガイド』『西洋古代史料集』『近代絵画』等購入。
・4月14日
巨人快勝。連夜のサヨナラゲーム。ファンはたまりません。『ギルガメッシュ叙事詩』を読む。しかし神様とは言え、ヒステリックな女性というのはいただけない。愛の女神イシュタルは、フンババを倒したギルガメッシュに求婚するもあっさり振られてしまう。その腹いせに「天の牛」なるものを遣わして彼と彼の町を苦しめる。彼の分身とも言うべき親友、エンキドゥとともに牛を倒すも、エンキドゥは神々の談合の結果、死なねばならない。ギルガメッシュは永遠の生命をもとめる旅に出、大洪水の神話に触れる……世界最古の神話の語るところのものはおもしろくもあり、せつなくもあり、リアリスティックでほろにがい。断片でしか知られないのが残念だ。
・4月13日
ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524〜85)は「フランス近代抒情詩の父」と讃えられる。井上究一郎氏の訳も絶妙で、その言葉の美しさと描写により情景を描くすばらしさ、恋愛詩はハイネには劣るかもしれないが、完成度は高い。ロンサールは初め軍人を目指したが、高熱により半聾となり、以後、自然によって歌を紡いだ。聴覚障害を得たが故に、彼の心の中の詩心は燃え上がり、森羅のリズムを感じ取るにいったったのだろう。ベートーベンもかくや。
・4月11日
巨人快勝。昨日の引き分け試合の決着をつける。方丈記に引き続き、吉田兼好の徒然草を拾い読みする。時代はちょうど、NHK大河ドラマ『北条時宗』のころ。最明寺入道、安達泰盛らの名前も見えて、よけいに面白い。柳葉敏郎演ずる安達泰盛の記述から。「城陸奥守泰盛は、双なき馬乗りなりけり…」とある。馬術、剣術に秀で、戦上手で名高い。時宗を支えた安達泰盛も息子の不祥事により、1285年、55歳にて誅せられる。二度に渡る元寇のうち、後の弘安の役が1281年だからそのわずか4年後ということになる。ドラマなら元寇後の後日談、ぐらいの形で描かれることになるのだろうか。
『ロンサール詩集』を読む。
・4月10日
方丈記といえば、もちろん古典の名作であり、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の冒頭は誰しも学校で習ったことがあるだろう。今回、一読してみてその名作たる所以にほんの少しではあるが触れることが出来た。リズムよく読み進み、飢饉災害、圧倒的にリアルな表現の中に、さあっと私の頭の中をよぎったのは、四季によせて思いを歌い上げるくだりである。『春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし』。ノートに書き写す。四季の変化を謳ったもの、といえば Sir Gawain and the Green Knight の一節がベストフレーズだが方丈記のそれも劣らない。
・4月9日
NHK教育の人間講座が面白い。ねじめ正一の司会で「言葉の力、詩の力」(月曜日)という講座をやっている。ねじめ正一も直木賞とって有名になったと思ったら、いつのまにやら詩人と銘打って活動してますね。舞台の上で、詩の読み合いというバトルをやってみたり……今日は、目の詩人、耳の詩人と題して、山ノ内獏、金子光晴が取り上げられていた。私は後半の金子光晴のところを少ししか見られなかったのだけれど、それでも面白かった。中でも「洗面器」という詩が印象深い。洗面器、日本ではそこに湯や水を入れ、手や顔をあらうものだけれど、他文化のところでは、そこに料理を盛り付け、あるいは、そこで女性が尿をする、しょぼりしょぼりと音をたててだ。その音に耳をすませば聞こえてくるのは、おおきなかなしみ。興味のある人はテキストを買ってみましょう。私も二人の詩集ととともに明日買います。さて、詩に対する私の態度を決定付けている書物といえば、ハイデッガーの珠玉の論文『言葉と詩』、三好達治の『詩を読む人のために』の2冊である。だいぶ前になるが、大学時代の機関紙にこの2冊を紹介したことが思い出される。
鴨長明『方丈記』をよむ。
・4月6日
先日より滞っていたミルチア・エリアーデの『世界宗教史』(ちくま学芸文庫)を再び読み始める。こういう本を読むときは、鉛筆片手に「ネタは転がってないかなぁ〜」って書き込みしつつ読むんだけど、この本を読んでるとネタが転がりすぎてて足の踏み場もない。余白が真っ黒になりそうです。宗教って不思議なもんですよね。人類が、自分達の暮らすこの自然世界に如何に関わっているか、自分はどういうふうに位置付けされるのか、そのあいまいで不確かで形而下的なものを表現しようとしたとき、こいつは生まれてくるんですね。宗教をもたないってことは、己のレーソンデートルを確信するためのもっとも簡単で確実な手段を放棄してることなのかもしれません。無宗教者の多い日本では、だからこそ新興宗教なんかが驚くほどの影響を及ぼしたりするんですね。宗教という己の raison d'etre を示してくれる魅力的な麻薬に対して免疫がないから、心に芯が一本とおってないからふらふらと流れていってしまう。かく言う私も一応は浄土真宗なんですが、これが私の中に占める割合って言うのは微々たるものです。でも流されないための抗体は備えているつもりです。これが私にとっての「書物」というものの一つのポジションなのかもしれません。
・4月4日
イチロー、新庄の活躍は置いておくとして、今日のニュースは春の甲子園で茨城常総学院が優勝したことですね。仙台育英を7対6で破っての初優勝。木内監督万歳!って感じです。仕事の帰り道、風は冷たく星はちらりとも見えぬ。淡い電灯の光に薄ピンクの桜が優しく明るい。さくら、サクラ、桜……坂口安吾であったとしても今宵は、この樹下に死体が埋まっているなどとは考えたくはない。
昨日とはうって変わってポカポカと良い天気。床屋に行き、たまっていた洗濯物をやっつける。いつもお世話になっているそば屋が新装開店。「いちかわ」から「ふじわら」に名前も変わって、店もこぎれいな感じになった。早いもので就職して1年が過ぎた。ほんとあっという間で、こうして1年1年がたっていってしまうのかと思うと、1日1日をほんと大切に過ごさなくては、と思う。PS2、中古で「モールモースの騎兵隊」を購入。朗読と画像の演出が、ムーミンを思い出させる作りでグッド。戦闘システムは結構頭を使うかんじ。
手もとにある『366日誕生花の本』(瀧井康勝著)を紐解くと、1月9日の誕生花は「すみれ(黄)」とある。花言葉は「慎ましい幸福」……ふ〜ん、確かに慎ましやかに人生を送っている気はするな。続いて花占いを見てみると「臆病や弱気になってはいけませんが、健康に対する心遣いと深い思考力を持って行動すべきです」か……昨年は体を壊したからなぁ、今年は注意せねばなるまい。24歳か、テニスンは24歳の時(きちんと述べるなら23歳だが)には既に、 'The Lady of Shalott' の推敲前のものを書き上げている。そんなこんなで23歳とは私にとって一つの区切の歳でもあった。すなわち納得のいく詩を一篇でも多くかくこと、である。目標は、半分も達成されていない。雨は外だけに降っていない。
ヴェルヌの『地底旅行』を読む。
・1月10日
いつになく暖かい夜。風がないからか。風呂場への渡り廊下。雲間に星が見える。星を見上げるといつも思い出すのはカントの言葉だ。「ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」。田舎の澄んだ冬空にオリオンの三ツ星を見上げるとき、私の心も昂ぶったものだ。都会の星にも輝きを。我が心を照らさんばかりの輝きを。
・1月11日
胡弓の弓に松脂を塗る。音がうまく出ない。何も浮かばぬ一日は、心がどこにあるのだろう。心は無常だ。方丈記を一歩進めたかの如く、流れ行く川に、時の存在を否定したのはヘッセだ。『シッダールタ』の中で、渡し守ヴァズデーヴァが悟っている。心に時はない、のだろうか。
・1月12日
花樹。見慣れぬ単語に目が止まった。『この火は花樹を鑽(き)て取れるなるべし/対ひ来ては終夜(よもすがら)春の情(こころ)有り』詠い手は菅原文時。朝日の朝刊に出ていたものだ。カジュと聞けば、ほぼ果樹が浮かぶであろう。花と果実、樹の持つ美しさ、優しさがそこには現れている。大地から、天からの恵みが豊かに結実している。樹というと、最近では北欧神話のユグドラシル、世界樹がどうしても浮かんでしまう。つまりは緑茂ったトネリコだ。そこまで来てふと、思う。トネリコの花? 見たことないな、と。トネリコに咲くっていうと語弊があるが、花よりも緑鮮やかなヤドリギがどうしても印象深い。フレイザーの、いわゆる「金枝」である。手元の『北欧神話宇宙論の基礎構造:「巫女の予言の秘文を解く」』や『北欧神話物語』をめくってみると、やはり花に関しての記述が見当たらない。当然ながら、九つの世界を支える枝や、三泉に降り立つ根がメインだ。甘露を滴らせる枝、という記述があるが、花とは書いていない。さてさて、こいつは調べねばなるまい。
・1月13日
何度目かの『インデペンデンス・デイ』を観る。アメリカらしい作品で、難しいことなど考えずに楽しめた。FFZを再び始める。最近のRPGと比較してもまったく劣らぬ造りであることを再認識。ドラクエZとは天と地ほどの面白さの開きがある。
利倉隆著『悪魔の美術と物語』を読む。
・1月14日
部屋の大掃除をする。新しいパソコンラックをおき、本棚を移動する。半日を費やす。夜、北条時宗を観、ヴァルター・ベンヤミンの『子供のための文化史』を読む。その中に収められている「犬についての実話集」が興味深い。植物学者リンネの観察した犬の描写は恐しい。それが本当に真実を写しているからだ。人は時として真実をオブラートでくるむことを好むゆえ。「肉、腐肉、植物質粉末を食べ、草を食べない。骨を消化し、草を食べれば吐く。石の上へふんをする、白っぽく、極度に刺激的なのを。舐めるように飲む。小水を横に飛ばす(中略)寄生虫になやまされる。狂犬病を伝染させる。最後には盲目になり、身を細らせる」。この文体、どこかでみたことがあるなと思って頭をひねってみると一人の作家の名が浮かんできた。その作家の名はアゴタ・クリストフ、作品とは『悪童日記』である。現実を簡潔な文体でそのままぶつけてくるあの迫力、あの怖しさ、そしてそれゆえの面白さ。訳の妙もあるのだろうが、リンネとクリストフの接点を見つけたおもいがした。
シャミッソー『影をなくした男』を読む。
・1月15日
「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた……」。ダンテ『神曲』の地獄篇冒頭の一節である。ブレイクの生々しく、力強い挿絵を眺めながら、今、集英社刊『神曲』(寿岳文章訳)のページをめくっている。『神曲』を最初に読んだのは多分、大学一年の終わりくらいだったとおもう。受験勉強で妨げられていた読書欲が溢れて、手当たり次第に本を読み漁っていた時期だ。それ故に岩波の擬古典調の『神曲』でもどうにか自分の胃に収めた覚えがある。かすった程度の神曲が再び私の元に返ってきたのは、あの神戸の「酒鬼薔薇聖人」による殺人事件であった。彼は神曲を読んでいた。事件のことを抜きにして、同年代の自分を振り返ってみるに、神曲の存在すら知らなかったかもしれない。大学のゼミでこの話題が出たとき、『神曲』を読んだことがあるのはほんの数人だった。世界の名作に触れていたことはいいとしても、彼にはよき導き手がつかなかった。彼はヴェルギリウスの霊に出会うことなく、当然、煉獄を経て、ベアトリーチェにその手を取られることもなく、事件を引き起こしてしまったのだ。そして今、三度、『神曲』は私の元に返ってきた。ウィリアム・ブレイクの豪勢な挿絵とともに、だ。この再会に心ながら感謝し、寒き夜ゆえ、温かき紅茶を傾けよう。
・1月16日
風邪をひいて休養せり。さて、「いつの世にも歓びは悲しみに終るものだからである」とは『ニーベルンゲンの歌』の終わりの一節である。でも一連の事件に関連した当事者がことごとく天に召されてしまうのはいかがなものかと思う。ジーフリト(ジークフリート)の后、クリエムヒルトもハゲネの首を刎ねるところまでいくと、とても正気とは思えない雰囲気をかもし出してくるし。個人的にはハゲネよりも事件の引き金を用意したプリュンヒルトが悪いと思うのだが、彼女は後半に入ると出てこない。女性同志のいがみ合いみたいなところから始まって、義を貫く騎士たちがばったばったと死んでいく。この物語に救いはないのだろうか、なにものかが新たに生まれはしないのだろうか? 悲しみだけではそれは悲劇ではない、そこから新たに何かが派生しなければ……そんなことをヤスパースは『悲劇論』に書いていたような気がする。
・1月17日
今日も今日とて風邪で寝ている。一日寝ていると背中が痛い。白米を炊き、湯気さめやらぬうちに、醤油で解きまわした卵をぶっかけ、刻みねぎとからしの利いた納豆をかけ一気にほおばる。病で弱った胃でも、このときばかりは食欲をわきおこす。二合の飯が消えた。
ボオドレール『悪の華』を読む。
・1月18日
「はたちばかよね、おばかさんよね」とは、とある雑誌のうたい文句だ。今年の成人式、各地ではっきりいって馬鹿としかいいようのない新成人の不祥事が報道された。二十歳などもう四年前、私にとって大分過去のこととなってしまった。ふりかえってみるに、別に、成人したからといってどうということもなかったと思う。それまでの延長で自然とすごして、現在に至っている。還暦とか米寿とか白寿とか、それまで生きていくことができたとしても、どうだろう、肉体は衰えても、精神はさして、いまと変わらないのかもしれない。もちろんそうなってみなければわからないことではあるのだが……
ボオドレール『悪の華』、R・ジョーダン『竜魔大戦:6』を読む。
・1月19日
FFZを再クリアする。ああ、こういうラストだったなぁ、と思い返す。あそこまでひっぱっているのだから、ホーリーの発動から、エアリスの祈りによるライフストームの結集、そこでのキャラクターたちをもっと描いて欲しかったっていうのは前回と変わらぬ感想だ。でもそれを抜きにしても完成度の高いものであることに変わりはない。しみじみしみじみと、私は床についた。
・1月20日
夕方から雪。どうりで寒いわけだ。雪の降り出づる空を見上げているといつも思い出すのは、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』に収められている短編 'The Dead' のラストシーンである。His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the decent of their last end, upon all the living and the dead. (全ての生者と死者の上に、それらの最後が到来したかのように、雪が宇宙全体を通してかすかに降りおちるのを耳にしながら、彼の心はゆっくりと意識をうしなっていった) そう、雪は全てのものの上に降り注ぎ、白という色で染め上げる。白は色ではない。色を殺すものだ。それを浄化とみるのは個々の自由である。いずれにせよ、久しぶりのまとまった雪だ。こんなときこそ、雪見で一杯かたむけたい。
エドガール・モラン『人間と死』を読む。『英語青年』読む。
日吉にて作業等。残雪、足元注意。28日が楽しみ。TRPGリプレイ『蠍座の迷宮』の書き下ろしをはじめる。大学二年の夏の旅行で行ったテーブルトークをテープに録音しておこしたものだ。ホームページ作成にあたり、友人の希望もあって書き下ろすことにした。ダンボールにしまいこまれていたテープはある意味、私の「宝箱」みたいなものだ。それを聞けばさまざまな思い出が蘇ってくる。大脳が記憶を呼び起こさんと、ニューロンとシナプスがフルに活動する。そして閉じた瞼の裏に綴られるキルトは鮮やかで、あたたかく、すこしほっとしていて、それでいて新鮮なのだ。
エドガール・モラン『人間と死』を読む。
・1月22日
イラストに色を塗っていると、友人Eが訪ねてきた。パソコン貸してくれぇ〜。詳しく聞けば、なんでもネットで荒川線貸し切り旅行のことを調べたいんだと。そんなマイナーな旅行、あんまり行きたくないなとは言わなかった。変わりに私は一風呂浴びに行くことにした。そして……帰ってきてみれば、フリーズ状態のパソコン。保存しておかなかった私も悪いのだが、ああ、データが消える……泣く泣く強制終了。また、あした。
・1月23日
何気なく気付いてみると今日は123の並びの日ですね、だから、どうっていうこともないけど。
・1月24日
NHKにて貝原益軒の話をやっていた。彼のあげる人生の楽しみ、その一番目が読書、そして二番目が旅である。まったく同感だ。読書なしの生活はちょっと考えられない。そして旅、これは時間の関係で仕方がないのだが、今年あたり、長旅にでたいものである。読書観っていうと、まず思い出すのが強烈なショウペンハウエルの『読書について』。彼の読書観は辛辣だ。ちょっとかじった程度では、読書を否定するかのような論を展開していく。書物を読むのもよいが、書物の中の他人に囚われてはいけない。それが言いたかったことなのだろう。
・1月25日
外は氷雨。風呂上り、四階の廊下にて。前方になにやら黒い影が佇むのにビクッとした。じっとして動かない。私の足は無意識に一歩一歩、そこへと近づいていく。その先に私の部屋があるからだ……まんが日本昔話の中に、お百度を踏む娘が最後の百日目の夜、その神社への石段の所で、狼に通せんぼをされるという話を思い出した。バックミュージックにあの鋭く恐ろしい音楽。願掛けをしたいが、狼は怖い。娘は勇気を振り絞り、目をつぶって石段を登っていった。そして気付くと神社の社の前に辿り着いていて、後では狼の遠吠えと月影に去り行く姿が重なる。そう、狼とは神様が娘に与えた試練だったのだ。願掛けは成った。「ふう……」目を開けると部屋の前に来ていた。振りかえると、しょぼ濡れた蝙蝠傘が静かに横たわっていた。
NHKの『プロジェクトX』を見る。ゴジラの製作にかける「あつい」男たちのドキュメンタリーだった。ゴジラの由来がゴジラ+クジラなのは知っていたが、そのモデルがいて、その大声で話すゴリラのような男がクジラの肉を好きだったから、というところまでは知らなかった。食堂での円谷英治の閃きだった。
・1月26日
コタツにて丸まり、暖をとる。風は掴めない。でも風を感じることはできる。風を求めゆくならば、その行きつく先、必ずや世界に触れることができる。その世界を大事にしたい。人は生きていくが、最終的に死ぬ。死を最終とするのなら、懸命に生きるとは、懸命に死のうとしていることでもある。
泉鏡花『鏡花短篇集』を読む
・1月27日
3年ぶりの大雪だそうで。職場の新年会に行くのに一苦労。でも数年振りの河豚料理はおいしかった。なにやら友人達は近くの駐車場で雪合戦。結婚式に着る衣装を選ぶのは難しい、選んでといわれても経験があまりないので、たいしたアドバイスもできなかった。
・1月28日
池袋サンシャインにて新刊発売。売れ行きはいまいち。サマリアナ・サーガの設定を友人諸氏に少し披露する。完成を急がねばなるまい。古本購入、研究社の『英語語源事典』、マリオ・プラーツの名著『肉体と死と悪魔:ロマンティック・アゴニー』等。眺めつつ至福の時を過ごす。
『ベーオウルフ』を読む。
1月29日
新大久保駅での惨事。日本と韓国でのひろがりを見せている。最近、サッカーワールドカップ日韓共催などの影響だろうか、日本と韓国の結びつきが急速に強まってきている節がある。悲劇を悲しみだけにおわらせてはいけない。そこから我々は学び、一歩を踏み出す糧としなければならない。いつも思うのだが、こういうニュースの後に機密費を使いこんだ外務省官僚のニュースなんかが報道されると目を覆いたくなる。ああ、という叫び声しか出てこない。この感嘆符をばこのようには使いたくない。
・1月30日
仕事早く終わるも眠し。残雪、黒く無残。
カール・ルヴィット『キェルケゴールとニーチェ』を読む。
・1月31日
世界観というものは結構、重なっていたりする。もちろん、私の方が先人達の開いた轍の上を知らず知らずのうちに歩いているだけ、以前に読んだものを踏襲しているだけなのかもしれないが……ニーチェのいう「存在の二重世界」「自分にとって世界は始めも終わりもない力の怪物、荒れ狂い、みなぎりあふれる力の海、永遠に変化し、永遠に還流し、回帰の周期をもち、干満する諸形態をもった、永遠に自分-自らで-破壊するディオニュソス的世界である」(レヴィット『キェルケゴールとニーチェ』より抜粋)は、私の描くサマリアナを補ってくれている。知的興奮を久々に味わった。
・2月1日
9時に就寝。
・2月2日
タクティクスオウガをやる。死者の宮殿B94。
・2月3日
昼頃起床、神保町を散策。古書購入。六時より神田にて新年会、焼肉等を食す。12時ごろ帰宅。死者の宮殿をクリアする。
ハイデッガーの詩集、『思惟の経験より』を読む。
・2月4日
昼頃起床、キャラメルボックス『ミラージュ』を懐かしく、見る。たまきが思いつめて毒の小瓶を持ち出すところはちょっと意外なんだよね、突然過ぎて。もちろん、それとなく不満はたまってたんだろうけど、それが描かれているところがあんまりないからね。でも、曲もいいし、また主人公の新庄先生が英語教師っていうのもいい。三国志Zをやる。
ハイデッガー『乏しき時代の詩人』を読む。
・2月7日
夕方から雪。仕事は暇。
『シレジウス瞑想詩集;上下巻』を読む。こいつはすごい。思索と詩作の宝庫だ。
・2月8日
合わない人、っていうのはいるものだ。そしてその理由が生理的にダメとかいうことになってくると、フォローも難しくなってくる。触らぬ神にたたりなし、を決め込むのが一番だろうか。私は、というか、現代の日本人のほとんどが葬式仏教の無神論者だとは思うが、宗教というものもまた人の心に巨大な塔を形成しえた文化である。そしてキリスト教、その神。シレジウスとトルストイの詩やら短篇やらを読んでいると、その偉大なこと、世界の全てであるといっていい。 私の小説の神は違う。そこでは神々はいわゆる神ではない。A.C.クラークの『幼年期の終り』に例をとるなら、オーバーロードに近いニュアンスがある。他に適当な表現がないゆえ、神と表記するに過ぎない。そして、神と人との違いとは「転回」しうるかどうか、世界において、安定、それとも不安定な存在かどうか、ということである。神は管理者だ。世界を整える、調停者だ。安定しており、しかしそれゆえ、新たな創造には関与し得ない。人は「転回」する。不安定ゆえ、深淵に飲み込まれようとしたその刹那、転回する。そこに救いが存在するのであり、新たな世界の創造であり、人は己の存在意義を世界に向かって証明して見せる。人は愛で生きる、それは納得。でもその対象は神ではない。人は人を愛し、それゆえ生きる。男は女を、女は男を。二つの性は一つになるために、そして子を育み、親子において三位一体を具現する。それこそが真実なんだろうね。
トルストイ『人は何で生きるか』を読む。
三国志Zをクリアする。登場武将全員でプレーできるとか、っていうことよりも漢詩大会とか、武術トーナメントみたいな遊び、それと能力パラメータを鍛錬であげることができるのが嬉しい。あとは戦争を委任してすぐ勝敗が分かるとか、時間の短縮になってよろしい。テオフィル・ゴーチエ、その名前はエリファス・レヴィとともに魔術師の名を冠する。二人とも生きた時代は違うんだけどもね。死霊の恋の女吸血鬼クラリモンドはキーツのLamiaを連想させるが、その実は大分ことなる。ポンペイ夜話はピグマリオンコンプレックスを知るものにとっては馴染み深い話だ。いずれも一読の価値あり。
テオフィル・ゴーチエ『死霊の恋、ポンペイ夜話他』を読む。
三連休の二日目。買い物等。DVDソフトと書籍購入。『トップをねらえ!Vol.2』『ヴァンドレッド』。鬼束ちひろの「月光」を聴いている。「I am GOD'S CHILD この腐敗した世界に堕とされた」というお馴染みの出だしがお気に入りだ。こういう詩は私好みです、はい。時の車輪シリーズの第四部竜魔大戦は大分おもしろくなってきている。隔月から月刊になって嬉しい限り。グインは……もう惰性に近い感じで読んでいるのだが、ページを流し読みしていても話をほぼ掴めてしまう、ある意味、すごい作品である。
『竜魔大戦7』『グインサーガ77』を読む。
・2月16日
仕事終了後、帰省する。本の整理などを行うためだ。夜中の12時ぐらいから始めて、3時ぐらいまでかかった。ダンボール箱にして8箱をこちらへ送ることにした。
・2月18日
日曜日。久しぶりのTRPG。システムはブレイド・オブ・アルカナ。通算、2回目ということで、いまいちでした。テープにも録音したので機会を見つけて起こしていきたい。きーにょからフォトショップを借りてインストール、イラストもかけるようになろう。
『ほらふき男爵の冒険』を読む。
・2月19日
休暇。届いた本の整理。森内閣の支持率が10%を切る。国民は既に彼を見放したというわけだ。どうにもこうにも……目を覆いたくなる数字だ。これが日本の政治を動かすのかと思うとぞっとする。
・2月20日
新しく出ているクトゥルー神話事典を眺めている。あまり馴染みがない(好きではない)世界でもあり、たぶん、私にとっては地名、人名などでしか役に立たない感じがする。
・2月21日
ビアズ『ゴーレムの挑戦』を読む。
・2月22日
最近、パソコンに向かう時間が多いせいか、異様に肩と目が重い。実家と弟がそれぞれパソコンを導入。皆でメールのやり取りをするのも楽しみである。反町と松嶋が結婚。友人が三月で仕事を止める。
マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』を読む。
・2月23日
朝夕もだいぶ暖かくなってきた。過ごしやすく良。サッカーワールドカップのチケット申し込みの用紙がたくさん余っている。一時期はただの申し込み用紙が四千円とか出売られていたのにだ。それにしてもFIFAはいかん。インターネットでの申し込みの延期。ドラクエの発売延期並だ。でも試合はドラクエほどはずれじゃないはず。
・2月25日
宮本輝の短篇『星々のかなしみ』を読む。涙を流す、本当に自然と涙が出てきた。宮本輝の作品を読んだのは久しぶりだった。大学生になった頃、彼の作品を好んで読んだものだが(とくに、彗星物語とか青が散る、蛍川、優駿などは面白かった)その後はすぐに、岩波や新潮の文庫などに走り、そのままゼミの影響もあって学術書や哲学書ばかり読んでいたので現代の日本人作家が書いたものはファンタジーを抜かすとほとんど読んでいなかったのだ。涙で心が潤うのもまたよきかな。
・3月1日
三月。朝から雨なのは久しぶりだ。暖かく柔らかな春の雨、というには程遠い。まだまだ氷雨といったほうが適切だ。永遠の生と輪廻。この主題は常に思考の縦糸となるものだが、そこに絡ませる横糸はなにがよかろう。神々と愛と、世界を生きていく人々、一人の少女と一人の青年の想い。タペストリを夜なべのように紡ぎながら、こうして日記を書きつけている。父から電話あり。パソコン購入とのこと。
・3月4日
雨続きなのも憂鬱なもの。今日は掃除、洗濯をしよう! と意気込んでいたのにたいして進まなかった。結局、流し周りを綺麗にするのとたまっていた洗濯を片付けただけで終。ミニストップにてザッハケーキを150円で購入。なんで普段、甘いものを買わないのに手に取ったのかといえば、昔、シナリオのネタでオーストリアの菓子職人たちの対立を取り上げたことがあったので、どんなもんかな、と。確か中欧史を調べてて文化欄のところで目にとまった記憶がある。コンビニの味は、普通かな。今でもオーストリアに行けばその味を堪能できるのだが……まあ、それはそのうちの話か。岩波の復刻板がでていたので購入。ハイネの『ロマンツェーロー:上下巻』。あとはベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』(こっちは講談社)。
・3月5日
かつてギリシアの詩人達は詩を歌うに臨み、詩神を称え、呼びかけ、己にその力みなぎらんことを願った。神なき現代、詩人が捧げるべき詩心のきっさきはどこに始まるのだろうか。ハイネのロマンツェーローの第1巻「史傳」にはこのような冒頭歌がある。『もしひと汝に裏切らば かえって真実をつくせ。汝が魂のかなしく死ぬるばかりなるときは、 立琴をとるべし。 絃かき鳴らせ! 血湧き肉踊る一曲の英雄詩! たちまち怒りもとけ 汝が心も やさしく血をながさん』 孤独の淵より我を解き放たんと欲するは、竪琴の響き。自らの指を動かし、心をふるわせ、それを詩へと高めゆく。そして流すものは心の血。「詩を作る」とは一つの世界を言葉によって世界に固定することでもある。固定された詩は、他人の心に新たな世界を構築もするが、その故郷、想念の世界においては二度と帰って来ない。我は、まさしく親の苦しみ。自ら血を流し、新たな命を詩へと結晶させているのだ。詩を形成するのが詩人の心であり、詩人の命である。血は一語一句に戛然と脈打つ。
・3月6日
希望が翼だとするならば、絶望は大地を蹴る脚だ。大地を強く蹴ればそれだけ高く羽ばたける。より深き絶望より転回してくる人こそ、希望に満ち、その翼、強くはためく。希望論を描く。
B・ラッセル『幸福論』読む。
・3月7日
転職する友人の送別会用にプレゼントを購入する。Mちゃん、Kさんの二人と共に篠崎でセレクト。バーミヤンにて遅い夕食。晴れた夜にも、風強し。
・3月9日
友人Mの送別会。小岩の「笑笑」にて。色紙を渡し、先日購入したプレゼントを渡し、Mのあいさつをきいているとやっぱり胸にくるものがあった。ウイスキー飲み過ぎ、久々に危ない橋を渡った。
・3月10日
昨夜に引き続き、我が家になだれ込んできた友人達。彼等は二日酔いの私の横で、茶をだせ、とかさんざん部屋の備品を物色していった。が、そんな中とくにNさん、掃除もいっしょにやってくれたのには感謝。
・3月11日
来週行く予定のスノーボード。その用意を御茶ノ水にて整える。ウェア一式、ゴーグル、グローブ、帽子、ネックウォーマー等、しめて6万円弱。Mと大戸屋にて昼食。
・3月12日
昼休み、NHKの国会中継を眺める。森さんは辞意ではない、としきりに繰り返す。虚しい。背中の吹き出物が治らない。
・3月13日
背中がずきずきと痛む。仕事終了後、即病院へ。やはり化膿していた。白いベッドの上にうつぶせになり、アルコール消毒一拭き。先生はメスでもって切開。やけるような痛み。今まで何度か経験したことがあるけど、この痛みはほんと、火が出るようだ。包丁で指を切ったなんてもんじゃないけんね、ほんとに。しばらく消毒のため通院です。 「紅梅のはなこぼれよと泥が待つ」(『火門集』阿部青鞋:昭和43年)風が強く、下手をすると息も出来ぬほど。三月だというのに最近は雪もふれば、北風も冷たい。咲き誇る梅花は泥に落つる間もなく空の彼方へと消えていった。
『竜魔大戦8』『グインサーガ78』読む。
・3月14日
Mより手紙がきた。先日の送別会の礼に始まり、酒が飲めるようになったのは私の影響だなどという思い出話の後に、最後に大きな字で「みんなに出会えて本当によかった」とあった。友人を持つということは、宝である。財産である。進む道は違えども、共に歩んだその時間は想いとなって心に結実する。孔子曰く「朋遠方より来るあり、また愉しからずや」。飲めるようになった杯を傾けて、交わす話は何でもよかろう。ただそのとき、己の杯をきちんと掲げられるように、自分に真摯に生きていきたい。ただそれだけだ。
・3月17日〜18日
新潟の上越国際へとスノーボードの旅。意外と面白く、Kさんがはまっているのも頷ける。身体中がいたくなった。ナイターでも滑ったし、温泉にもつかったし、充実の休日でした。
・3月19日
Mの送別会、第二ラウンドは職場の皆と月島の「屋形船もんじゃ」であった。窓から吹き込む風は心地よかった。ただあの揺れが、いまいち胃袋をかき混ぜてくれたおかげでちょっと気分が悪かった。Sさんが写真をたくさん撮っていたのであとで焼き増ししてもらおう。 暗き水をわたる風は火照った頬を優しく撫でて、船首から喧騒を抜け夜空へと帰って行く。運び去れ! 我が友の涙。いつの日か、まためぐり合わんや。誓いは胸に、想いは瞳に。交わした杯を星へと掲げ、心の泉に写しとどめん。 帰りのタクシー代金四千円は痛かった。
・3月20日
春分の日にて休日。昼と夜の時間が同じ日だと思っていたら、どうもそうではないとのこと。先週の土曜日が同じで、今日はもう昼の時間の方が長いんだそうで。ねこやなぎのふわふわとした殻がはじけ、白い花が咲き誇る。散歩に出れば風に、春のあったかい、ほのぼのとした匂いをかぐ。いい季節になってきました。
・3月25日
千葉県知事選挙の日。学生の頃、神奈川県民だった私は、県議会議員選挙に何度か脚を運んだことがある。とくに政治に興味もなかった私は(今でもあまり、あるとは言えないが)、ほんと適当に投票権という権利を行使していた。ツルネン・マルティ(だったかな)っていう立候補者がたったときにはもの珍しさ、7分、期待3分ぐらいの気持ちで投票したのを覚えている。ああ、懐かしいかな……二子新地。
・3月26日
『リウイ』7巻、『火魅子伝』5巻を読む。水野良もロードス書いてたころに比べたら大分砕けたものを書くようになったもんです。たまにこういうのを読むと懐かしいし、ちょっと物足りなかったりもするけれど、すらすらと読み下せていくのは心地よかったりもする。
・3月27日
寮の風呂にてT、Eの両氏と遭遇。3人揃うのは久しぶりかも。給料とか、とりとめのない話。平凡社の中国古典文学大系はいい本です。『水滸伝』とか『史記』とか『西遊記』とか『三国志演義』とか……宮城谷氏もたしかそんなことをどっかのあとがきで言っていたと思う。古本屋へ行くと3冊で1万とかしちゃうけど読み応えはあるし、おもしろい。手持ちの本で万を超えている本はやっぱりいいものが多い。文庫が一冊平均100円ぐらいで扱われてるご時世に、その100倍の値段をとってるんだからさもありなん。まあ、絶版で希少価値もついてるんだけどね。アカデミー賞、一押しの『グラディエーター』は五部門(だったかな)でオスカーをゲット。主演のラッセル・クロウは『キャスト・アウェイ』で頑張ってたトム・ハンクスを押さえて主演男優賞に輝いた。この作品、『ベン・ハー』によく比較されるけど、わたしのなかでは話の厚みってことでは宗教性の強い『ベン・ハー』の方が上。でも、無宗教の現代日本人には『グラディエーター』の方が親しみやすいし、理解しやすいかと思う。登場人物、哲人皇帝マルクス・アウレリアスの『自省録』が手もとにあって、その冒頭にこうある。「祖父ウェルスからは。温雅高貴の人柄と、ものに激せぬ平静心を(われは学ぶ)」と。その教えは映画をみるに明らかに息子には伝わってないよね。ああこの人も息子で苦労したんだなあ、と妙なところで感慨にふけったりもした。まだ見ていない人は是非。
『三侠五義』を読む。
・3月28日
薬害エイズ訴訟の安部さんは無罪。菅大臣も個人的に納得できてないそうで。まあ、しかしあれだけ揉めて、問題起こして医者としての落ち度はなかった、って言われてもねぇ。ほんと被害者の人たちは納得できないでしょ。かたや森さんは森さんで、外交さぼって寿司つまんでるし……もう、これはホント、ここまでやられるとなにも言う気がおきません。
・3月30日
年度末の仕事も無事終了。帰宅してすぐにTVをつけると慎之介がお立ち台でヒーローインタビューを受けてた。巨人快勝!!! 言うことなし。いやあ、今年もプロ野球は愉しめそうです。
・3月31日
上野の森美術館にて18世紀ヴェネツィア絵画展を観る。美術館に脚を運ぶのも久しぶりだ。氷雨降る朝、開館前の美術館に佇む。桜はもうちらほらと緑が交じって神秘性を欠いていた。目玉はGiambattista Tiepolo(ジャンバッティスタ・ティエポロ)の代表作『Nettuno offre doni a Venezia』(ヴェネツィアに富を捧げるネプトゥヌス)だ。神話とかキリスト教とかに題をとった絵画というのは、私の好みで、この絵もお気に入りの一つに追加。コレクションとしてブックマークも購入した。隣で見ていた人が、ネプチューンの差し出した金貨などを「五百円玉をぶちまけたみたい」と表現していた。まあ、日本で一般的に流通している硬貨で一番重量感のあるものだし、新しい五百円は金色がかってるからあながち的外れな比喩ではない。ただもっとボリュームがあるのは否めないが。あとキリスト教主題ってことで、やっぱりティエポロの『受胎告知』。このテーマの絵画はいくつも見てるけど、ティエポロのは大天使ガブリエルがいい。翼が、天使の翼っていうより羽って感じで目新しい。マリアの服の赤も鮮やかだ。現在、ボッティチェリのヴィーナスと受胎告知が切手になって販売中だが、こういう絵画シリーズをもっと増やして欲しいものである。 帰りは雪になった。桜が咲いてるのに雪とは……二十数年振りだそうで。どうりで寒いわけだ。
『ヴァンドレッド』Vol.2購入。ハイネ『歌の本:上下巻』読む。